新選組の隊士は、敵に斬られて死んだ数より、切腹や暗殺で味方に命を奪われた数のほうがずっと多かったといわれます。おなじみの浅葱色の羽織も、着ていたのは結成から1〜2年ほどでした。
新選組は1863年(文久3年)に幕府が集めた浪士組から生まれ、会津藩のもとで京都の治安を守った組織です。ドラマや小説でおなじみの姿には、後の時代に広まった話も少なくありません。
そんな新選組にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
名前と制服と掟のウソ・ホント
まずは名前や羽織、隊の掟といった新選組の「顔」にまつわる話から。よく知られたイメージの中には、昭和に入ってから広まったものも含まれています。
1. 新選組と新撰組、正しいのは?

新選組の「選」と「撰」は、当時どちらの字も使われていました。近藤勇が1864年(元治元年)5月に出した手紙の封印は「選」ですが、1867年(慶応3年)6月の会津藩の文書では「撰」と書かれています。
隊の公印が押された文書が「選」であることから、2004年ごろからは教科書でも「新選組」の表記が主流になりました。
2. 浅葱色の羽織は短命だった

新選組といえば袖口にダンダラ模様が入った浅葱色の羽織でしょう。この模様は忠臣蔵の討ち入り装束をまねたと、元隊士の永倉新八が大正期に語っています。
ただ隊服として着ていたのは結成から1〜2年ほどとされ、その後は黒衣に黒袴が中心でした。浅葱色を切腹の裃の色とし、死の覚悟と結びつける説明は後世の解釈なのです。
※浅葱色=あさぎいろ、薄いネギ(葱)の葉のような、やや緑色を帯びた明るい青緑色(薄い藍色)のことです。
3. 「局中法度」は後世の呼び名

厳しい隊の掟として有名な「局中法度」ですが、この名前と5か条の中身は1928年(昭和3年)に出た作家・子母澤寛の『新選組始末記』から広まったもので、当時の史料にはこの呼び名は出てきません。
元隊士の永倉新八の談話では「禁令」と呼ばれ、条文は4か条でした。私闘を禁じた5条目は、子母澤が付け加えたとみられています。
4. 池田屋での沖田の喀血は創作?

1864年(元治元年)の池田屋事件で沖田総司が血を吐いて倒れる場面は有名ですが、元になったのは子母澤寛の作品です。現場にいた永倉新八の記録には「倒れた」とあるだけで、血を吐いたとは書かれていません。
倒れた原因には諸説ありますが、よく見かける沖田の肖像画は1929年(昭和4年)に描かれたもので、本人の写真は1枚も残っていません。
お金と日々の暮らしぶり
命がけの仕事の一方で、隊士たちにも日々の暮らしがありました。給料や屯所での生活、土方歳三の実家の話を見ていきましょう。
5. 新選組の月給はいくら?

元隊士の永倉新八の回想によると、月給は局長50両・副長40両・副長助勤30両・平隊士10両だったそうです。副長助勤は、局長と副長の下で隊士をまとめた幹部のこと。
ただしこの金額の出どころは1927年(昭和2年)の『新撰組永倉新八』で、当時の支給記録は見つかっていません。あくまで本人の記憶にもとづく数字といえます。
※池田屋事件のあとには報奨金が出て、働きに応じて額に差がついたとされます
6. お寺で大砲を撃ち豚を飼う

1865年(慶応元年)に隊の拠点を西本願寺へ移した新選組は、境内で大砲の訓練をして寺を困らせたと伝わります。医師の松本良順の勧めで、栄養のため豚や鶏まで飼い始めました。
困った寺は費用を出して不動堂村に新しい拠点を建て、出ていってもらうことになりました。しかし1867年(慶応3年)6月に移った新拠点は、12月までの半年足らずしか使われませんでした。
※当時の建物で境内に残るのは太鼓楼だけで、北集会所は明治に入って姫路の本徳寺へ移されました
7. 土方の実家の薬は熱燗で飲む

土方歳三の実家には「石田散薬」という家伝薬があり、若き土方も行商しました。骨折や打ち身・切り傷に効くとされ、水ではなく熱燗の酒で飲むのが決まりだったのです。
江戸時代の宝永年間から約250年作られましたが、1948年(昭和23年)に薬事法の改正で薬効が認められず製造中止になりました。その後、生家跡では子孫が土方歳三資料館を営んでいます。
隊士たちの最期とその後
最後は隊の中での厳しい処分から箱館での終わり、そして明治を生きた隊士たちの話です。
8. 敵より味方に殺された隊士

結成から鳥羽・伏見の戦いまでの約5年のあいだに、敵に斬られて死んだ隊士は6〜7人ほど。これに対して、切腹や暗殺など身内の手で命を落とした隊士は30〜40人にのぼるとする研究もあり、数え方によって人数には幅がありますが、差ははっきりしています。
掟を破れば切腹という厳しい運営が、その背景にありました。
出典:山村竜也「新選組は敵に殺されるよりも、味方に殺されたほうが何倍も多かった?」(Yahoo!ニュース エキスパート・2022年)、菊地明『新選組 粛清の組織論』(文春新書・2016年)
9. 「大久保大和」と名乗った近藤

甲州勝沼の戦いに敗れた近藤勇は、1868年(慶応4年)4月に約200人を連れて下総の流山へ移りました。ここで「大久保大和」と名乗って新政府軍に出頭しますが、隊を離れていた元隊士に正体を見破られてしまいます。
4月25日、近藤は板橋で斬首されました。首は京都の三条河原でさらされ、その後の行方ははっきりしません。
※この1年足らず前の1867年(慶応3年)6月、新選組は隊ごと幕臣に取り立てられ、近藤は三百俵の旗本格になっていました
10. 新選組の最後は箱館で降伏

1869年(明治2年)5月11日、土方歳三が箱館での戦いで命を落としました。その4日後の5月15日、箱館港の砲台である弁天台場に残っていた新選組は相馬主計を隊長として新政府軍に降伏します。
旧幕府軍の本拠地だった五稜郭の開城は、さらに3日後のことで土方の遺体がどこに葬られたのかは今も謎のままです。
※土方は死の前に少年隊士の市村鉄之助に写真などを託し、故郷の日野へ届けさせたと伝わります
11. 斎藤一は明治に警察官へ

剣の腕で知られた斎藤一は、1874年(明治7年)に藤田五郎と名を改めて警視庁に入りました。1877年(明治10年)の西南戦争にも警部補として従軍しています。
1892年(明治25年)に退職したあとは東京高等師範学校の博物館で守衛長を務め、続いて東京女子高等師範学校で庶務と会計の係に就きました。1915年(大正4年)、満71歳で亡くなっています。
12. 昭和まで生きた最後の隊士

最後まで生きていた新選組隊士とされるのが、池田七三郎です。本名を稗田利八といい、1938年(昭和13年)1月16日に満88歳で亡くなりました。
1929年(昭和4年)には子母澤寛の取材に応じ、隊での日々を語っています。その回顧は「新選組聞書」として残り、実際に隊にいた人の貴重な証言となりました。
まとめ
「局中法度」という呼び名や池田屋での沖田総司の喀血は、昭和の作家・子母澤寛の作品から広まったものでした。浅葱色の羽織も、実際に着ていたのは結成から1〜2年ほどとされています。
また敵に斬られた隊士より、切腹や暗殺で身内に命を奪われた隊士のほうがずっと多かったのも新選組の一面です。隊は1869年(明治2年)に箱館で終わりを迎えますが、斎藤一や池田七三郎のように明治から昭和を生きた隊士もいました。
よく知られた姿と史料に残る姿を見比べると、新選組の印象が少し変わってくるかもしれません。
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更新日:2026年9月25日(金) 06:33

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