「鎖国」といえば、江戸幕府が外国との行き来を断ち、国を閉ざした政策として習った人も多いでしょう。ところが実際には、長崎でオランダや中国と貿易を続け、対馬や薩摩、松前でも外国とのやりとりがありました。
海外の情報や珍しい品々も、限られた窓口を通じて入ってきていたのです。その一方で日本人が海を渡ることは固く禁じられ、厳しい決まりに運命を左右された人もいました。
そんな鎖国にまつわる雑学を12個ご紹介します。
「鎖国」という言葉の正体
まずは「鎖国」という言葉そのものの話から。教科書でおなじみの呼び名にも、意外な成り立ちがありました。
1. 「鎖国」という言葉は当時なかった

「鎖国」という言葉は、江戸時代の初めにはありませんでした。1801年(享和元年)、元オランダ通詞の志筑忠雄がケンペルの『日本誌』の一章を訳し、『鎖国論』と題したのが始まりとされます。
いわゆる「鎖国令」も、1633〜1639年(寛永10〜16年)に出された一連の命令を、後の時代にまとめて呼んだ名前です。
※幕府の中でこの言葉が使われ始めたのは1853年(嘉永6年)ごろで、定着したのは1858年(安政5年)以降とみられます
2. 外国への窓口は4つあった

江戸時代の日本には、外国とつながる窓口が4つありました。長崎ではオランダや中国と、対馬の宗氏は朝鮮と、薩摩の島津氏は琉球と、松前の松前氏はアイヌの人々と交流していたのです。
この4つは「四つの口」と呼ばれますが、これも当時の言葉ではありません。1980年ごろに歴史学者の荒野泰典が使い始めた研究用語です。
3. 教科書から消えかけた「鎖国」

2017年(平成29年)2月、文部科学省の学習指導要領の改訂案で、「鎖国」の語が消えかけました。小中学校とも「幕府の対外政策」などと言い換える案でした。
しかしパブリックコメントで「開国と対にならず教えにくい」との批判が集まり、翌月の告示で復活しました。また「聖徳太子」を「厩戸王」とする案も同時に戻されました。
出島と長崎の知られざる顔
続いては、外国との玄関口だった長崎の話です。出島の成り立ちやオランダ人の役目、はるばる海を越えてきた動物まで見ていきましょう。
4. 出島は町人出資の貸し物件

出島は1636年(寛永13年)に完成した扇形の人工島です。長崎の有力な商人25人が出資し、市中に住んでいたポルトガル人を集めて住まわせるために造りました。
ポルトガル人は年に銀80貫の土地代を払いました。1641年(寛永18年)に平戸から移ったオランダ商館の分は銀55貫に下がりましたが、今の約1億円に当たるとされます。
5. ペリー来航は1年前に予告済み

幕府はオランダに、海外の情報を「風説書」として提出させていました。やがて、より詳しい「別段風説書」も加わります。
1852年(嘉永5年)の別段風説書には、アメリカが条約を求めて艦隊を送ることや、司令官がペリーに代わったことまで書かれていましたが、それでも老中の阿部正弘は大きな対策をとらなかったようです。
※別段風説書は、アヘン戦争をきっかけに1840年(天保11年)から出されるようになりました
6. 将軍の前で歌ったオランダ人

オランダ商館長は定期的に江戸へ出向き、将軍に拝謁しました。医師ケンペルも1691年(元禄4年)と翌年に参府し、綱吉に会っています。
御簾の奥の将軍の前で、一行は側近を通じて踊りや酔っぱらいの真似などを求められました。ケンペルは歌を披露し、2回目には夫婦のやりとりを演じて接吻の真似までしたと書き残しています。
7. 長崎から江戸まで歩いた象

1728年(享保13年)6月、将軍吉宗の注文で、ベトナムから雌と雄2頭の象が長崎に着きました。雌は長崎で死んでしまい、雄だけが陸路で江戸を目指します。
途中の京都では、1729年(享保14年)4月に中御門天皇の前へ。およそ370里の道のりを74日かけて歩き、江戸に着いたのは5月25日のことでした。
※天皇に会うため「従四位」の位を与えられたという話は後世の書物に見えるもので、当時の史料では確かめられていません
国を出た人・来た人の運命
最後は、国を閉ざす決まりに人生を左右された人たちの話です。海を渡った日本人や、日本にたどり着いた外国人の運命をたどります。
8. 出国も帰国もできなかった日本人

1635年(寛永12年)の命令で、日本人の海外渡航と、海外にいる日本人の帰国がどちらも禁じられました。それまでは、幕府の許可を得た船なら海外へ渡ることもできたのです。
当時の東南アジア各地には、日本人が暮らす日本人町がありましたが、移り住む人が途絶えたことで、こうした町はやがて衰えていったと考えられています。
9. 貿易再開を願った使節の最期

1639年(寛永16年)にポルトガル船の来航が禁じられると、翌1640年(寛永17年)にマカオから貿易の再開を願う使節が長崎にやって来ました。
幕府は願いを聞き入れず、大使4人を含む61人を斬首し、乗ってきた船も焼き払います。命を助けられたのは13人だけで、この出来事を知らせる役としてマカオへ帰されました。
10. 漂流民を乗せた船を砲撃

1837年(天保8年)、アメリカの商船モリソン号が日本にやって来ました。音吉ら漂流民7人を送り届け、通商を求めるための武器を積んでいない船でした。
しかし幕府は異国船打払令にもとづき、浦賀と鹿児島湾で砲撃しました。漂流民は帰国できず、この対応を批判した渡辺崋山と高野長英はのちに蛮社の獄で処罰されます。
※異国船打払令は1825年(文政8年)、蛮社の獄は1839年(天保10年)の出来事です
※アヘン戦争で清が敗れたと知った幕府は、1842年(天保13年)に薪水給与令を出して打ち払いを改めました
11. ロシア女帝に会った船頭

伊勢の船頭・大黒屋光太夫は1782年(天明2年)、江戸へ向かう途中で遭難し、アリューシャン列島に流れ着きました。ロシアを横断して、1791年(寛政3年)に女帝エカチェリーナ2世に会い、帰国を願い出ます。
翌年、使節ラクスマンの船で根室へ。けれども17人のうち、帰国後まで生き延びたのは光太夫と磯吉の2人だけでした。
12. わざと漂流したアメリカ人

1848年(嘉永元年)、ラナルド・マクドナルドはわざと小舟を転覆させて漂流者を装い、利尻島に上陸しました。長崎に約7か月留め置かれる間に森山栄之助ら通詞14人に英語を教えています。
英語を母語とする日本初の英語教師とされ、翌年アメリカの軍艦に引き渡されました。森山はのちに日米和親条約の通訳を務めています。
まとめ
「鎖国」という言葉は1801年(享和元年)の翻訳から生まれたもので、江戸時代の初めにはありませんでした。実際には長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口を通じて、外国との行き来が続いていたのです。
長崎の出島は町の商人たちが出資した人工島で、そこにいたオランダ人はペリー来航の1年前に、その計画を幕府へ知らせていました。
一方で日本人は出国も帰国も許されず、漂流民を送り届けに来た船が砲撃されたこともあります。閉じているようで開いていた鎖国の時代には、意外な顔がいくつも隠れています。
あわせて読みたい
更新日:2026年9月29日(火) 10:23

モアイ像の雑学12選!頭だけに見えて胴体は土の下
フランクリンの雑学12選!毎朝全裸で過ごす日課があった
キュリー夫人の雑学11選!ノートは今も放射線を放ち続ける
名誉革命の雑学10選!実は血が流れた無血革命
縄文時代の雑学13選!暴力で亡くなった人はわずか1.8%
北条時宗の雑学11選!34歳で散った元寇の英雄の生涯
鎌倉時代の雑学16選!いい国つくろうはもう古い
石田三成の雑学11選!命を狙われ敵である家康の屋敷へ逃げた