幕末の日本といえば、江戸城の無血開城を成し遂げた勝海舟の名前が浮かびます。ただ、その一生をたどっていくと、教科書に並ぶ大立者の顔とはずいぶん違う姿が見えてきます。
犬に噛まれて長く寝込んだ少年、辞書を丸ごと2部も書き写した青年、そして敵だった相手の名誉回復に晩年を費やした老人。派手な武勇伝よりも、人づきあいと段取りで乱世を渡り切った人でした。
そんな勝海舟にまつわる雑学を12個ご紹介します。
犬と座敷牢の少年時代
勝海舟といえば幕末の大物という印象がありますが、その出発点はずいぶん危なっかしいものでした。まずは、大人になる前後のエピソードから見ていきます。
1. 9歳で犬に噛まれた大けが

数え9歳のころ、海舟は犬に急所を噛まれて大けがを負いました。生死をさまようほどの重傷で、日常の生活が送れるまでに回復するのに70日ほどかかったと伝わります。
父の小吉は金比羅さまへ裸参りをし、毎晩水垢離をとって快癒を祈り、夜は息子を抱いて寝たといいます。荒っぽい父の必死な姿がしのばれる話ですが、当の海舟にはこの一件がこたえたようで、晩年まで犬が苦手だったと語り伝えられています。
2. 座敷牢の中で生まれた長男

父の勝小吉は無役の小普請、41石ほどの貧しい御家人でした。家出や喧嘩を繰り返す破天荒な人で、21歳から24歳までのおよそ3年間、座敷牢に押し込められています。長男の麟太郎、のちの海舟が生まれたのはその期間中だったとされます。
小吉は天保9年、37歳で隠居して家督を譲り、自伝『夢酔独言』の結びには子孫へ向けて「けして俺のまねをするな」と書き残しました。自分を反面教師にした父の言葉です。
3. 蘭和辞書を丸ごと2部書き写す

25歳ごろの海舟は、蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』全58巻、約5万語を蘭方医から年10両で借り受けました。そして1年がかりで、これを丸ごと2部も筆写したと伝わります。
1部は自分の勉強用、もう1部は売り払って借り賃と生活費に充てたそうです。売値は30両とも60両ともいわれます。
辞書が簡単には手に入らない時代、学びたい気持ちが写本という力技になって表れた一例といえそうです。
4. 「海舟」は借り物の号

海舟という号は、師である佐久間象山が書いた「海舟書屋」の額からとったものとされ、もともと誰の号だったのかははっきりしません。
幼名と通称は麟太郎、諱は義邦で、維新後には安芳と改めました。安房守を名乗ったことから勝安房とも呼ばれます。
名前をいくつも持つのは当時の武士では珍しくありませんが、いちばん有名な呼び名が借り物というのは、いかにも飄々とした彼らしいところです。
※「諱(いみな)」は正式な名前のことです。海舟は背が低く、自ら「五尺に足りぬ四尺なりとは」と詠み、徳富蘇峰は「五尺の短身すべてエネルギー」と評しました。五尺は約151cmです。
幕末、勝が動いた場面
幕末の海舟は、船に乗り、人と会い、交渉の場に立ち続けました。よく知られた場面ほど、実際のところは少し違っていたりします。
5. 咸臨丸では船室にこもる

万延元年(1860年)、海舟は咸臨丸で太平洋を渡りました。ただし航海中は激しい船酔いなどでほとんど自室にこもっていたと伝わります。
実際の操船を支えたのは同乗のアメリカ人であるジョン・ブルック大尉らで、日本人で技量があったのは中浜万次郎や小野友五郎などごく少数でした。上役は軍艦奉行の木村喜毅で、海舟はその下の教授方頭取という立場です。
往路は37日、往復の全日数は140日にのぼりました。
6. 斬りに来た話の出どころ

坂本龍馬が海舟を斬りに来て、逆に説得されて弟子になった。この有名な話の出どころは、海舟本人の後年の談話です。
海舟の日記に龍馬が初めて出るのは文久2年12月29日の「坂下龍馬子来る」の一行だけで、刺客とも斬りに来たとも書かれていません。龍馬側の史料にも見当たらず、研究者は海舟の記録の粗さを指摘しています。
一方、龍馬が姉の乙女に「日本第一の人物勝麟太郎殿」の弟子になったと書いた手紙は本物で、重要文化財に指定されています。
※海舟の談話集『氷川清話』には、編者の手が入った版があることも知られています。
7. 江戸を焼く計画もあった

西郷隆盛との交渉が決裂した場合に備え、海舟は江戸の市街を焼いて新政府軍の進軍を妨げる焦土作戦を用意していたと伝わります。新門辰五郎ら市井の顔役の伝手をたどり、町火消しや鳶職の親分、博徒の親方のもとを自ら回って協力を求めました。
さらに、火災のあとはあらかじめ江戸湾に集めた雇い船で避難民を運び出す段取りまで整えていたといいます。穏やかに見える交渉の裏には、それだけの覚悟が置かれていたわけです。
※海舟は剣術の免許皆伝でしたが、自分では人を斬らない主義だったと伝わります。
8. 先に駿府へ向かった山岡

江戸城の無血開城は、海舟ひとりの手柄ではありません。慶応4年3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷と会い、7か条の条件を示されました。
慶喜の身柄引き渡しを求められた山岡は、もし島津の殿様が朝敵とされたらあなたは主君を差し出して平気でいられますか、と詰め寄り、西郷にその条項の取り消しを確約させています。海舟と西郷の会談はその後の3月13日と14日、江戸城の明け渡しは4月11日のことでした。
敵にも味方にも尽くした晩年
明治に入ってからの海舟は、表舞台から一歩引きつつ、人のために動き続けました。相手がかつて敵だった人であっても、です。
9. 朝敵のままの西郷のために

西南戦争に敗れ、朝敵とされたまま世を去った西郷隆盛。海舟はその名誉回復に奔走し、明治12年(1879年)には私費で西郷南洲留魂詩碑を建てました。
表面には西郷が獄中で作った漢詩、裏面には海舟自身の述懐が刻まれています。碑ははじめ木下川の浄光寺にあり、大正2年の荒川放水路の開削にともなって、海舟の墓がある洗足池のほとりへ移されました。
上野の西郷像の建立も海舟が支援しています。
出典:大田区公式サイト「西郷南洲留魂詩碑」
10. 敵だった慶喜のために動く

維新後の海舟は、30年にわたって徳川慶喜の名誉回復に力を尽くしました。明治25年に嫡男の小鹿を亡くした海舟は、慶喜の十男である精を養子に迎える縁組を結びます。
精は海舟の死後に家督と伯爵の位を継ぎました。慶喜が参内を果たしたのは明治31年のことです。
かつて主君と家臣として難しい関係にあった二人が、家どうしのつながりで結び直された形ともいえそうです。
11. 反論せずに返した一行

福沢諭吉は、幕臣でありながら明治政府に仕えた海舟を批判する『瘠我慢の説』を明治24年に書き上げました。福沢は公表の前に草稿を海舟と榎本武揚へ送り、意見を求めています。
ところが海舟は反論せず、行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず、とだけ返したと伝わります。『時事新報』に掲載されたのは明治34年、海舟が世を去ったあとのことでした。
※「行蔵(こうぞう)」は出処進退、つまり自分の行いという意味です。
12. 最期はコレデオシマイ

明治32年(1899年)1月19日、海舟は風呂上がりに倒れ、脳溢血でそのまま息を引き取りました。享年75。最期の言葉は「コレデオシマイ」だったと伝わり、これは長く勝家の女中を務めた増田糸子の証言によるものです。
遺言めいた重々しさはなく、まるで一日の仕事を終えたときのような一言でした。大仕事をいくつも背負いながら、去り際まで飄々とした語り口を崩さなかった人らしい幕切れとして、今も語り継がれています。
まとめ
勝海舟の一生は、座敷牢で生まれ、犬の一件で寝込んだ少年時代から始まり、辞書を2部書き写す粘り強さ、江戸を焼く覚悟まで用意した交渉術へと続きます。よく知られた場面も、咸臨丸はアメリカ人の手を借り、無血開城は山岡鉄舟が先に道をつけたものでした。
それでも晩年、朝敵とされたままの西郷や、かつての主君である慶喜のために30年動き続けたことを思うと、この人の芯にあったのは輝かしい手柄ではなく、始末をつけるという姿勢だったように見えてきます。批判に「我に関せず」とだけ返した一言まで含めて、なんとも味のある人物です。
海舟の名言を一つ調べてみると、また違う顔が見えてくるかもしれません。
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更新日:2026年9月5日(土) 10:00

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