アステカ帝国の雑学13選!カカオ豆はお金で偽物まで出回った

メキシコの湖の上に築かれた帝国、アステカ。ただしアステカというのは後世につけられた呼び名で、本人たちはそう名乗っていません。

湖の泥を積んだ畑で作物を育て、カカオ豆をお金として使い、52年に一度は国じゅうの火を消しました。首都の人口は同じころのロンドンの5倍とも言われ、その都を倒したのは剣ではなく天然痘でした。

そんなアステカ帝国にまつわる雑学を13個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

名前と都市とことばの話

まずは、この帝国が何と呼ばれ、どこに都を築き、どんな言葉を話していたのかという話から。私たちが当たり前に使っている名前や単語の中に、思わぬ形で残っています。

1. アステカは自称ではない

アステカは自称ではない

アステカの人々は、自分たちをアステカとは呼んでいませんでした。中心にいた集団の自称はメシカで、メキシコという国名もこの言葉に由来しています。

アステカという呼び名は、神話上の故郷アストランに住む人という意味から作られた造語で、19世紀初めに博物学者フンボルトの著作などを通じて広まったとされています。定着したのは1810年代以降で、帝国が滅んでから300年近くのちのことでした。

歴史の教科書に並ぶ名前は、当人たちが一度も名乗らなかった名前だったわけです。

※メシカは、アステカと総称される諸集団の中心にいた集団を指します。

2. 湖上の都はロンドンの5倍

湖上の都はロンドンの5倍

首都テノチティトランは、テスココ湖の島の上に築かれた都市でした。創建は1325年とされますが、これは1925年に600周年として公式に採用された年で、正確な創建年はわかっていません。

スペイン人が到達した1519年の人口は20万〜40万と推定され、ヘンリー8世時代のロンドンのおよそ5倍にあたります。これに並びうる欧州の都市は、パリ、ヴェネツィア、コンスタンティノープルくらいでした。

アメリカ大陸最大級の先コロンブス期都市が、地図の空白として扱われていたことになります。

※先コロンブス期とは、ヨーロッパ人が到達する前のアメリカ大陸の時代を指す言い方です。

3. トマトもアボカドもナワトル語

トマトもアボカドもナワトル語

アステカの人々が話したナワトル語の単語は、スペイン語を経由して英語や日本語に入り込んでいます。トマトはtomatl、アボカドはahuacatl、チリはchilli、コヨーテはcoyotl、タマルはtamalli、チョコレートはchocolatl、カカオはcacahuatlがもとになっています。

アホロートルやチポトレも同じ流れです。ahuacatlはもともと果実そのものを指す語で、形が似ていることから睾丸を意味する俗な使い方が二次的に加わりました。

台所の棚には、思っているより多くのアステカが並んでいます。

※チョコレートの語源については異説があり、次の項目で触れます。

出典:Merriam-Webster

4. チョコレートの語源は未決着

チョコレートの語源は未決着

チョコレートはナワトル語のxocolatl、つまり苦い水が語源だとよく説明されます。ただしこの説は根拠が薄いのです。

xocolatlという語形は、古典ナワトル語の文献に確認されていません。さらにxococは苦いではなく酸っぱいを意味する語で、苦いにあたる語はchichicです。

対抗する説として、飲み物を泡立てる棒chihcolliに由来するchicolatlという形を挙げる研究もあります。語源はまだ決着しておらず、毎日のように口にしている言葉の出どころは、実はよくわかっていません。

※古典ナワトル語は、16世紀ごろに記録されたナワトル語を指します。

出典:言語学者マグヌス・ファラオ・ハンセンの解説、Dakin & Wichmann の研究(2000年)

湖が育てた食べ物とお金

アステカの暮らしを支えたのは、都を取り囲む湖でした。畑も、食べ物も、お金も、湖と切り離せない形で成り立っていました。

5. チナンパは浮いていない

チナンパは浮いていない

湖の上で作物を育てたチナンパは、浮かぶ庭と紹介されることがあります。実際には浮かんでおらず、湖底に固定された人工の島畑でした。

浅い湖底に杭を打って枠を組み、湖の泥や水草を積み上げて土地を作り、四隅に柳を植えてその根で全体を締めつけます。幅は数メートル、長さは数十メートルから200メートルほどと資料によって幅があります。

栄養豊かな泥を足しながら年に何度も収穫でき、最大で年7回とする資料もあります。浮かんでいないほうが、はるかによく働く仕組みでした。

出典:ブリタニカ

6. 湖の藻と虫の卵が食卓に

湖の藻と虫の卵が食卓に

テスココ湖では、水面に増える藍藻を網ですくい集め、乾かしてチーズのように固めた食べ物が作られていました。テクイトラトルと呼ばれ、今でいうスピルリナの仲間とみられています。

ベルナル・ディアスは、湖から集めたぬるぬるしたものを固めた菓子で、チーズに似た味だと書き残しました。ミズムシの卵アワウトリも食用にされ、メキシコのキャビアと呼ばれて今も市場に並びますが、採取する人は数人にまで減ったと伝えられます。

湖のほとりでは、水面そのものが畑だったわけです。

※藍藻は、水中で増える細菌の仲間で、藻に見えるものを含みます。

7. カカオ豆はお金だった

カカオ豆はお金だった

アステカではカカオ豆がそのまま通貨として使われていました。1545年に書かれたナワトル語の文書には、当時の値段が並んでいます。

タマル1個がカカオ1粒、七面鳥1羽が200粒、荷運び人の日当が100粒といった具合です。カカオは飲み物としても消費されていたので、財布の中身をそのまま飲んでしまうこともできました。

腐りやすく、大量には貯めこめない点も、通貨としては独特です。使えばなくなるお金という言い方が、これほど文字どおりに当てはまる例もそう多くありません。

※タマルは、とうもろこしの生地を包んで蒸した料理です。

出典:Archaeology Magazine(2010年)、1545年のナワトル語文書

8. 偽のカカオ豆が出回る

偽のカカオ豆が出回る

お金として通用するものがあれば、偽物も現れます。アステカでも偽のカカオ豆が出回っていたことが知られています。

本物の豆の中身をくり抜いて泥や砂を詰め直したものや、灰や粘土をこねて豆の形に整えたもの、アマランサスの生地や蝋で作られたものまであったと伝えられます。アボカドの種を削って豆に似せた例も記録されています。

手間のかかりようを見ると、豆一粒の価値がそれなりに高かったことが伝わってきます。贋金づくりの熱心さは、時代も材料も選ばないようです。

※アマランサスは、当時よく栽培されていた穀物の一種です。

出典:Mental Floss の解説記事

52年の儀式と帝国の最期

ここからは、暦にしたがって繰り返された儀式と、帝国が終わりを迎えるまでの話です。よく知られた数字ほど、確かめてみると印象が変わります。

9. 52年に一度の消灯の夜

52年に一度の消灯の夜

アステカでは260日の暦と365日の暦が併用され、両方が一巡する52年ごとに新しい火の儀式が行われました。この日は神殿から家庭のかまどまで火が消され、古い調理具や衣類は捨てられます。

妊婦は化け物になるのを防ぐとして顔を青く塗られ穀物庫に閉じ込められ、子どもはネズミに変わらないよう起こし続けられました。人々は星の丘ウイシャチテカトル山でプレアデス星団の南中を待ち、生贄の胸の上で火を起こしたと伝えられます。

世界の続きを、毎回きちんと確認していたわけです。

※儀式は1351年、1403年、1455年、1507年に行われ、1507年が最後になりました。帝国が滅んだのは1521年です。

10. 頭蓋骨の塔の意外な中身

頭蓋骨の塔の意外な中身

テノチティトランの大神殿テンプロ・マヨールの脇には、頭蓋骨を積み上げた塔がありました。ウエイ・ツォンパントリと呼ばれる建造物で、2015年に発見され、これまでに600個以上の頭蓋骨が確認されています。

直径はおよそ5メートル、アウィツォトル王期の1486年から1502年ごろに、3期に分けて築かれたとみられます。敵の戦士の首を並べたものという通説がありましたが、2025年に発表された分析では、サンプル214点のうち男性が46.3パーセント、女性が37.4パーセントを占めました。

※比率は総数ではなく、分析されたサンプル内のものです。残りは子どもや、状態が不完全なものにあたります。

出典:メキシコ国立人類学歴史研究所(INAH)の発掘調査、2020年・2025年発表

11. 8万400人の生贄は誇張

8万400人の生贄は誇張

1487年のテンプロ・マヨール奉献では、4日間で8万400人が生贄になったという記録が伝わっています。ただしこの数字を4日で割ると、昼夜休みなく続けても毎分14人ほどという計算になり、現実には成り立ちません。

のちにアステカの古老から聞き取られた話では、4000人という数字も出てきます。研究者のあいだでは、数千人規模までのあいだで推計に幅があり、8万400人は誇張とみるのが一般的です。

数を盛るのは、勝った側の記録によくある癖のようです。

※4000人という数字も、正確な人数として確認されたものではありません。

12. 征服を支えた通訳の女性

征服を支えた通訳の女性

征服を実際に動かしたのは、言葉の通じる一人の女性でした。ラ・マリンチェ、のちにドニャ・マリーナと呼ばれた彼女は、ナワトル語とチョンタル・マヤ語の両方を話せました。

当初はコルテスのスペイン語をアギラールがユカテク・マヤ語に直し、さらに彼女がナワトル語へ移す二段構えのリレーでした。のちに彼女はスペイン語も覚え、通訳は一人で済むようになります。

ベルナル・ディアスは、ドニャ・マリーナの助けなしにはメキシコの言葉を理解できなかっただろうと書き残しました。

※現代のメキシコでは、自国より外国を上に置く態度をマリンチスモと呼びます。

13. 帝国を倒したのは天然痘

帝国を倒したのは天然痘

テノチティトランを崩したのは、剣よりも病でした。1520年、スペイン側が持ち込んだ天然痘が都で大流行します。

免疫を持たない人々のあいだで一気に広がり、メソアメリカ全体の死者は500万〜800万人と推計されています。生存者の証言を集めたフィレンツェ絵文書には、顔にも胸にも腹にも腫れ物ができた、多くが病で死に多くが飢えで死んだとあります。

モクテスマ2世を継いだクイトラワクも在位80日ほどで亡くなり、天然痘によるものとされます。都が陥落したのは翌1521年です。

※フィレンツェ絵文書は、16世紀に現地の人々への聞き取りをもとに編まれた記録です。

出典:ダンバートン・オークス研究図書館の解説「1520年の大流行」

まとめ

アステカという名前は当人たちの自称ではなく、首都テノチティトランは同じころのロンドンの5倍という規模の湖上都市でした。カカオ豆が通貨として流通し、偽の豆まで出回っていたことも記録から確かめられます。

一方で、8万400人の生贄や苦い水という語源のように、長く語られてきた話ほど根拠が揺らいでいます。滅ぼされた側の歴史は勝った側の記録を通してしか残らないぶん、数字も語源もふくらみやすいのかもしれません。

トマトやアボカドという言葉を口にするたび、少しだけこの帝国とつながっていると思うと、なんだか不思議な気分になります。

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更新日:2026年9月4日(金) 11:22

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