徳川綱吉の雑学13選!中野の犬小屋は東京ドーム20個分

江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉といえば、犬を大切にした「犬公方」というイメージが強いのではないでしょうか。

ですが実際の綱吉は、儒学の講義を自ら何百回も行い、大名に能を舞わせ、側近を異例の大出世させるなど、意外な一面をたくさん持っていた人物でした。

悪法として語られがちな生類憐みの令にも、捨て子や病人を守るという知られざる中身があったと言われます。

そんな徳川綱吉にまつわる雑学を13個ご紹介します。

1. 母は「玉の輿」の語源説

母は「玉の輿」の語源説

綱吉の生母である桂昌院は、京都の町人の娘から将軍の側室となり、女性として最高位の従一位まで昇ったことから、「玉の輿」の語源になったとよく言われます。

ただし語源には諸説あり、八百屋の娘だったという出自についても、確かなことはわかっていないようです。

2. 湯島聖堂と東大の意外な縁

湯島聖堂と東大の意外な縁

綱吉は1690年に湯島へ孔子廟を移し、学問を重んじる姿勢をかたちにしました。

この場所はのちの1797年に幕府直轄の昌平坂学問所となり、明治期を経て、東京大学だけでなく筑波大学やお茶の水女子大学など、いくつもの学校の源流のひとつになったと言われています。

3. 大名を悩ませた儒学講義

大名を悩ませた儒学講義

綱吉は自ら大名や幕臣に向けて儒学の講義を行っており、国立公文書館に残されている記録では、『周易』だけでも1693年から1700年までに240回にのぼりました。

生涯では400回を超えたとも言われており、聞かされる側の大名にとってはかなりの負担になっていたようです。

※「周易(しゅうえき)」は儒学の経典のひとつです。

4. 大大名も能を舞わされた

大大名も能を舞わされた

能楽に熱中していた綱吉は、自分が舞うだけでなく大名にも舞うよう命じ、1686年には徳川光圀や前田綱紀といった大大名が直前に言い渡され、慌てて稽古をして舞ったと伝わります。

綱吉自身も1697年には能を71番、舞囃子を150番以上も舞ったと記録に残されています。

5. 側近・柳沢吉保の大出世

側近・柳沢吉保の大出世

柳沢吉保は家督を継いだ時の家禄が530石でしたが、綱吉に重く取り立てられて、最後は甲斐一国15万石余りを与えられる大名にまで上りつめました。

内高では22万石余りにあたり、甲府はそれまで徳川一門が治める土地だったため、譜代の家臣が入るのは異例のことでした。

6. 中野につくられた巨大な犬小屋

中野につくられた巨大な犬小屋

中野に設けられた御囲は、史料によって約16万坪から30万坪と広さに幅があり、収容されていた数も4万匹から8万匹ほどと記録されています。

『徳川実紀』はたちまち10万匹に及んだと伝聞の形で記しており、餌代は年におよそ9万8000両と試算した記録も残っています。

※「御囲(おかこい)」は幕府がつくった犬の収容施設です。

7. 人にもやさしかった法令

人にもやさしかった法令

生類憐みの令は動物だけを守るための法ではなく、捨て子の禁止と養育、行き倒れや病気の旅人の保護、牢屋の待遇の改善なども含んだ幅広いものでした。

牢では月に5度の行水や、冬の防寒具などが定められ、綱吉の死後も捨て子や病人を保護する仕組みは残されています。

8. 蚊を殺して島流しは本当か

蚊を殺して島流しは本当か

蚊を殺して島流しにされたという話はよく知られていますが、元になった記録での処分は閉門で、『御当代記』もそうした噂があるという伝聞の形で書いています。

研究者の山室恭子による集計では、処罰の事例は69件、極刑は13件で、治世の前半に集中していたそうです。

※「閉門(へいもん)」は門を閉ざして外出を禁じる謹慎の刑です。

9. 身長124cm説の根拠

身長124cm説の根拠

綱吉の身長は124cmしかなかったという説があり、その根拠は、愛知の大樹寺に伝わる位牌の高さとされています。

ただし位牌は身長に合わせて作られるという前提自体が俗説とされ、一方で残された甲冑がとても小さいことから、実際に小柄だったのではないかとも言われます。

10. 死因をめぐる二つの説

死因をめぐる二つの説

綱吉の死因は1709年の麻疹が有力とされますが、天然痘とする辞典もあるようです。

一方で、正室の鷹司信子が綱吉を刺して自らも命を絶ったという無理心中の説も『翁草』などに伝わりますが、信子が亡くなったのは綱吉の死の約1か月後で、後世の創作だとされています。

※「麻疹(ましん)」は、はしかのことです。

11. 浅野内匠頭は即日の切腹

浅野内匠頭は即日の切腹

1701年、浅野内匠頭は刃傷のあったその日の夕方のうちに、庭先で切腹を命じられています。

大名を即日で切腹させるのは異例で、喧嘩両成敗の慣行も破られており、朝廷からの勅使をもてなしている最中の刃傷だったことが、綱吉が激しく怒った主な理由とされています。

※「勅使(ちょくし)」は朝廷から幕府へ送られた使者です。

12. 治世の末に相次いだ災害

治世の末に相次いだ災害

綱吉の治世の終わりごろには、大きな災害が立て続けに起こっています。

1703年にはマグニチュード8.2と推定される元禄地震が起こり、さらに1707年の宝永地震から49日後には富士山が噴火して、この宝永大噴火を最後に、富士山は300年余りにわたって噴火していません。

13. 遺言はわずか10日で覆る

遺言はわずか10日で覆る

綱吉は死の床で、せめて自分の死後3年は続けてほしいと、6代将軍の家宣に言い残したと伝えられています。

しかし家宣は綱吉の死からわずか10日後に生類憐みの令を撤回しており、牢につながれていた人々も釈放され、その数は8000人以上にのぼったとも言われています。

更新日:2026年8月15日(土) 09:35

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