淀殿の雑学11選!江戸の絵本では蛇の妖怪だった

豊臣秀吉の側室として、また大坂の陣で豊臣家とともに滅んだ女性として知られる淀殿。

気の強い悪女という顔で語られることの多い人物ですが、近年の研究が描き出す姿はずいぶん違います。

呼び名も立場も、これまで当たり前とされてきたことが見直されつつあり、江戸時代には妖怪のように描かれもしました。

残された記録からは、体調を崩しながら幼い息子を守ろうとした一人の母の姿も見えてきます。

そんな淀殿にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. 淀君も淀殿も後世の呼び名

淀君も淀殿も後世の呼び名

生前の史料に見えるのは「淀の方」「淀の女房」「御袋様」という呼び方で、淀殿の初見は林羅山が1616年に書いた『秀頼記』とされます。

淀君が定着したのは1904年初演の坪内逍遥の戯曲『桐一葉』以降で、福田千鶴は同時代の呼び方としては淀様が正しいとしています。

※『秀頼記』は、淀殿が亡くなった翌年に書かれた書物です。

2. 側室ではなく正室だった説

側室ではなく正室だった説

生きている間の史料で彼女を側室や妾と書いたのは、一夫一妻制をとるキリシタンの宣教師の記録だけでした。

太田牛一は『太閤さま軍記のうち』で正妻を指す「北の御方」「北政所」と書いており、秀吉の死後には高台院と並べて「両御台所」と記した史料もあります。

※これは福田千鶴が唱えている説です。「両御台所」の記述は『佐竹古文書』に見えます。

3. 引っ越すたびに変わった呼び名

引っ越すたびに変わった呼び名

1589年に淀古城で鶴松を産むと「淀の女房」、大坂城に移ると「大坂殿」、二の丸に入れば「二の丸殿」、伏見城の西の丸に住めば「西の丸殿」と呼ばれました。

当時の身分の高い女性は名前で呼ばれることが少なく、住んでいる場所がそのまま呼び名になったのです。

※この淀古城は、江戸時代に築かれた淀城とは場所が異なります。

4. 兄を処刑した男に嫁ぐ

兄を処刑した男に嫁ぐ

1573年の小谷城の落城で父・浅井長政と祖父・久政が自害し、兄の万福丸は数え10歳で捕らえられ、信長の命を受けた羽柴秀吉の手で処刑されました。

1583年の北ノ庄城落城では母・市と継父の柴田勝家も亡くなり、のちに淀殿は、兄の命を奪ったその秀吉の妻となるのです。

※万福丸が串刺しにされたという話は、軍記物『浅井三代記』に見える記述です。

5. 求婚に出した妹思いの条件

求婚に出した妹思いの条件

『渓心院文』によれば、秀吉から求婚された際に、まず妹たちの縁組をまとめてほしいと条件を出したと伝わります。

実際に妹の初は従兄の京極高次に、江は秀吉の甥の小吉秀勝に嫁いでおり、淀殿が秀吉の妻と確認できる史料は1586年の『言継卿記』が初めとされます。

※『渓心院文』は江戸時代に成立した記録で、そう伝わる話として受け止めるのがよさそうです。

6. 秀頼を自分の乳で育てた

秀頼を自分の乳で育てた

当時の上級武家では生まれた子を乳母に預けて育てるのが普通でしたが、淀殿は待望の跡取りである秀頼を自分の母乳で育てたらしいことが分かります。

秀吉が乳は足りているかと気づかう書状を送っており、幼い我が子に母として直接向き合っていた様子がうかがえます。

7. 名医のカルテが残っている

名医のカルテが残っている

名医として知られた曲直瀬玄朔が記した『玄朔道三配剤録』には、1601年に気鬱による不食や眩暈、頭痛で薬を処方された記録が残ります。

1603年には胸の痛みや食事が思うように取れない症状の記録もあり、いずれも徳川との緊張が高まっていく時期と重なっています。

※曲直瀬玄朔は「まなせげんさく」と読みます。気鬱は気分がふさぐ状態を指す当時の言葉で、現代の病名を当てはめられるものではありません。

8. 江戸時代には妖怪扱い

江戸時代には妖怪扱い

1797年から1802年にかけて刊行された『絵本太閤記』には「淀君蛇形をあらはす」という場面があり、その正体は蛇身として描かれています。

政治学者の原武史は、江戸幕府が女性が権力を持つとろくなことが起きないという反面教師として淀殿を語らせたと指摘しています。

※『絵本太閤記』は挿絵入りの読み物として、当時広く読まれました。

9. 関ヶ原では静観していた

関ヶ原では静観していた

関ヶ原の直前に家康へ上洛を促す書状を出したのは、淀殿と増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行の側でした。

淀殿は西軍が望んだ秀頼の出陣も墨付きも許さず静観し、戦後は豊臣家の直轄領およそ222万石が諸大名に分配され、摂津・河内・和泉の約65万石まで縮みました。

※墨付きは、主君が承認を与えた文書のことです。

10. 砲弾が居間に命中した

砲弾が居間に命中した

大坂冬の陣のさなか、1614年12月17日に徳川方の砲弾が淀殿の居間に命中し、崩れた建物の下敷きになって侍女7〜8人が亡くなりました。

これを機に和議へ傾いたとされますが、それ以前は武装した女房3〜4人を従えて番所の武士を激励して回っていたと『当代記』にあります。

※番所は、警備の武士が詰めていた場所のことです。

11. 血筋は皇后につながる

血筋は皇后につながる

妹の江と豊臣秀勝の間に生まれた姪の完子を、淀殿は猶子として手元で育て、1604年に五摂家の一つ九条家の九条忠栄へ嫁がせました。

完子の子から血筋をたどっていくと大正天皇の皇后である貞明皇后につながり、豊臣の血は思わぬ形で近代まで受け継がれたことになります。

※猶子は「ゆうし」と読み、養子に近い形で子として遇する間柄を指します。九条忠栄はのちに幸家と名乗りました。

更新日:2026年8月6日(木) 03:13

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