ウォルト・ディズニーの雑学12選!ミッキーを描いたのは盟友

ミッキーマウスのデザインを仕上げたのは、実はウォルト・ディズニー本人ではありませんでした。手がけたのは、長年の盟友だったアニメーターです。

ウォルトは最初の会社を破産させ、人気キャラクターの権利も手放すなど、若いころに何度もつまずいています。それでもアカデミー賞では、今も破られていない個人最多の記録を残しています。

そんなウォルト・ディズニーにまつわる雑学を12個ご紹介します。

ミッキーが生まれるまでの道

まずは、若き日のウォルトが歩んだ回り道と、ミッキーが生まれた前後の話です。

1. 訓練所にいたマクドナルドの男

訓練所にいたマクドナルドの男のイラスト

1918年、16歳のウォルトは生まれ年を1年ごまかし、赤十字の救急車部隊に入りました。コネチカット州の訓練所には、同じく年齢を偽って入った15歳前後の少年もいました。

のちにマクドナルドを世界的なチェーンに育てるレイ・クロックです。ウォルト自身は休戦後にフランスへ渡り、救急車の運転手を務めています。

※休戦は、第一次世界大戦の戦闘が止まったことを指します

2. 最初の会社は破産で終わった

最初の会社は破産で終わったのイラスト

ウォルトがカンザスシティで立ち上げたアニメ会社ラフ・オ・グラムは、資金繰りに行き詰まって1923年に破産しました。その記録は、今もアメリカ国立公文書館に保管されています。

再起をかけたウォルトはカリフォルニアへ移り、兄のロイと新しい会社を立ち上げました。

出典:アメリカ国立公文書館

3. ウサギと実況アナの交換

ウサギと実況アナの交換のイラスト

ウォルトが1927年に生んだウサギのオズワルドは、権利がユニバーサル社にありました。翌年の契約交渉が決裂し、ウォルトはキャラクターとアニメーターの多くを手放します。

戻ったのは78年後の2006年で、スポーツ実況アナのアル・マイケルズを他局へ移すのと引き換えに、ディズニー社が権利を取り戻しました。

※実況アナは、スポーツ中継で試合の様子を伝えるアナウンサーのことです

4. ミッキーを描いたのは盟友

ミッキーを描いたのは盟友のイラスト

オズワルドを失った帰りの汽車でミッキーを思いついた、という話はウォルト自身が何通りにも語っており、細部には脚色が多いとされます。

デザインを仕上げたのは盟友のアブ・アイワークスで、最初の作品もほぼ1人で動かしました。アニメーション用の絵を1日に700枚も描いていたそうです。

※700枚という枚数は、伝えられている目安の数字です

5. 最初の名はモーティマー

最初の名はモーティマーのイラスト

ウォルトは新しいネズミを、はじめ「モーティマー」と名づけるつもりでした。ところが妻のリリアンが首を振り、名前は「ミッキー」に変わります。

1959年のラジオインタビューで、ウォルト本人がこのいきさつを語りました。「モーティマー」と書き込まれた初期のスケッチも残っています。

白雪姫とアカデミー賞

続いては、周囲の反対を押し切って作った長編映画と、その先に積み上がった受賞記録の話です。

6. 白雪姫はディズニーの道楽

白雪姫はディズニーの道楽のイラスト

長編アニメ『白雪姫』の制作費は、当初25万ドルと見積もられていました。ところが費用は膨らみ続け、最終的に約150万ドルに達してしまいました。

業界では「ディズニーの道楽」とからかわれ、妻と兄も反対しました。途中の試写を見た銀行の担当者が完成を後押しし、約25万ドルとされる追加融資に応じています。

※制作費の総額は、資料によって約125万〜150万ドルと幅があります

7. 小人の数だけ並んだオスカー

小人の数だけ並んだオスカーのイラスト

1939年のアカデミー賞で、ウォルトは『白雪姫』の功績をたたえる名誉賞を受けました。贈られたのは通常サイズのオスカー像1体と、小さな像7体です。

小さな像は、物語に登場する7人の小人にちなんだもの。像を手渡したのは、当時10歳の人気子役シャーリー・テンプルでした。

※名誉賞は、ふつうの部門とは別に、特別な功績に贈られる賞です

8. 今も破られない受賞記録

今も破られない受賞記録のイラスト

ウォルトがアカデミー賞にノミネートされた回数は59回で、受賞は競争部門22回と名誉賞4回の計26回で、どちらも個人として最多の記録になっています。

1954年の授賞式では、ノミネートされた4部門すべてで受賞しました。受賞の多くは、作品を送り出したプロデューサーとしてのものです。

※ディズニー公式は、技術賞なども含めて受賞を32個と数えています

出典:Billboard/D23

夢の国づくりと最期の日々

最後は、趣味の鉄道やディズニーランド、フロリダの計画、そしてウォルトが亡くなったあとの話です。

9. 妻と交わした線路の契約書

妻と交わした線路の契約書のイラスト

ウォルトは自宅の庭に全長約800mの鉄道を敷き、機関車には妻の名前から「リリー・ベル」と名づけました。

花壇の邪魔になると妻が反対したため、線路は花壇の下をS字のトンネルでくぐらせています。夫婦は通行権をめぐる冗談半分の契約書まで交わし、娘2人が立会人になりました。

※通行権は、その土地を通ってよいという権利のことです

10. 開園日はブラック・サンデー

開園日はブラック・サンデーのイラスト

1955年の開園日は、招待客向けの内覧日でした。ところが偽造チケットやフェンス越えの人がまぎれ込み、約2万8000人が押し寄せます。

気温38度前後の猛暑でアスファルトは柔らかくなり、配管工のストライキで水飲み場も足りませんでした。スタッフはのちに、この日を「ブラック・サンデー」と呼んでいます。

※内覧日は、一般公開の前に関係者などを招いて見せる日のことです

※入場者数や気温は、資料によって多少の違いがあります

11. 土地は名前だけの会社で購入

土地は名前だけの会社で購入のイラスト

フロリダの用地は「M.T.ロット不動産」など名前だけの会社を通じて、マンハッタンの約2倍の土地をひそかに買い集めました。

1965年10月に地元紙が買い手の正体を報じ、計画は公になりました。ウォルトの死後は兄ロイが後を継ぎ、「ウォルト・ディズニー・ワールド」という名前にこだわりました。

※「M.T.ロット」は、空き地を意味する英語「empty lot」にかけた名前とされます

12. 冷凍保存されたという噂

冷凍保存されたという噂のイラスト

「ウォルトは死後に冷凍保存された」という話は、よく知られた都市伝説ですが、実際には1966年に肺がんがもとで亡くなり、2日後に火葬されました。

遺骨はロサンゼルス近郊の墓地に納められています。噂は死の翌年にタブロイド紙が書き立てたのが始まりで、1972年には冷凍保存団体の会長の発言で広まりました。

※タブロイド紙は、うわさ話やゴシップを中心に扱う大衆向けの新聞です

まとめ

ウォルト・ディズニーは、最初の会社の破産やオズワルドの権利を手放した経験を経て、ミッキーマウスを世に送り出しました。そのミッキーのデザインを仕上げたのは盟友アイワークスで、汽車でひらめいたという話にも脚色が多いとされます。

周囲から「道楽」とからかわれた『白雪姫』はヒットし、アカデミー賞では今も個人最多の記録が残っています。

フロリダの計画は兄ロイに引き継がれ、本人は冷凍保存の噂とは違って火葬されました。華やかな夢の国の裏側には、何度もの失敗と、それを支えた人たちの存在があったのです。

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更新日:2026年9月29日(火) 07:56

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