足利義満の雑学12選!自ら日本国王と名乗った将軍

足利義満は、室町幕府の3代将軍であり、室町時代の全盛期を築いた人物として知られています。

南北朝の争いを終わらせ、明との貿易で幕府に大きな富をもたらし、京都の北山に金閣を建てました。将軍の座を退いたあとも大御所として実権を握り続け、天皇に近い立場まで上りつめています。

その一方で、遅刻した公家を追い返したという細かい一面も記録に残っています。そんな足利義満にまつわる雑学を12個ご紹介します。

権力の頂点へ上りつめる

義満がどのように力を蓄え、朝廷に近づいていったのかをたどります。まずは南北朝の争いを終わらせた場面からです。

1. 南北朝合一と破られた約束

南北朝合一と破られた約束

北朝と南朝に分かれた争いは、1336年ごろから約56年続きました。収拾を主導したのが足利義満で、大内義弘が仲介しました。

1392年閏10月、後亀山天皇が京都に戻り、三種の神器を後小松天皇に渡して合一が成りました。明徳の和約と呼ばれます。

ただし皇位を両統から交互に出すという約束は、1412年の後小松天皇の譲位で反故になります。反発した南朝の子孫の抵抗は、15世紀後期まで続きました。

※「三種の神器」は皇位を受け継ぐしるしとされる宝物です。

出典:コトバンク「足利義満」、Wikipedia「明徳の和約」

2. 天皇と同い年だったいとこ

天皇と同い年だったいとこ

足利義満の母は紀良子で、その姉妹の広橋仲子は後光厳天皇の典侍として仕えていました。仲子が1358年に産んだ緒仁親王が、のちの後円融天皇です。

つまり後円融天皇と義満は、母どうしが姉妹という母方のいとこにあたります。しかも二人は同じ1358年の生まれで、同い年でもありました。

※「典侍(ないしのすけ)」は天皇のそば近くに仕えた女官の役職です。

出典:コトバンク「紀良子」、Wikipedia「広橋仲子」

3. 花の御所から生まれた呼び名

花の御所から生まれた呼び名

1378年、義満は京都の北小路室町に大邸宅を構えます。

花の御所という名の由来には諸説あります。庭に名花を多く植えたからという説と、もとの御所が花亭と呼ばれていたのを継いだという説が伝わります。

室町通に正門があったため室町殿とも呼ばれ、後世に室町幕府や室町時代という呼び名が生まれました。

出典:京都市 歴史まちづくり「都市史 花の御所」、コトバンク「花の御所」

4. 邸宅に建てられた紫宸殿

邸宅に建てられた紫宸殿

金閣は、北山第という巨大な邸宅の一部にすぎません。1397年から造営が始まり、天皇の住まいである内裏の正殿と同じ紫宸殿という名の建物までありました。

1408年には後小松天皇を迎え、20日間の滞在となりました。

義満の死後、義持が舎利殿などを残して解体し、紫宸殿は南禅院へ移されました。

※「紫宸殿(ししんでん)」は内裏で儀式に使われた中心の建物です。
※「舎利殿(しゃりでん)」が現在の金閣にあたります。

出典:京都市考古資料館 文化財講座資料、宮内庁書陵部所蔵資料目録

明との外交と日本国王

義満は中国の明と国交を開き、日本の代表としてふるまいました。その進め方は、当時から賛否の分かれるものでした。

5. 明の皇帝へ送った国書

明の皇帝へ送った国書

1401年5月、義満は僧の祖阿と博多商人の肥富を明へ送ります。国書の書き出しは、日本准三后某、書を大明皇帝陛下に上る、で、まだ臣とは名乗っていません。

ところが2年後の国書では、中国の皇帝の家来という形式をとります。当時から公家や武家、僧の間で批判がありました。

義満の死後、4代将軍の義持は明との国交を断ちました。

※「准三后(じゅさんごう)」は皇后などに準じる待遇を表す称号です。

出典:コトバンク「日本国王」、世界史の窓「足利義満」

6. 明から贈られた日本国王の称号

明から贈られた日本国王の称号

1402年、明の建文帝から届いた詔書には日本国王源道義と記されていました。道義は義満の法号で、これにより義満は明の皇帝から日本国王として冊封されます。

翌1403年には、自ら日本国王臣源と署名した国書を永楽帝へ送ります。

日本には天皇がいるのに、対外的には義満が日本の代表として通交していたことになります。

※「冊封(さくほう)」は中国の皇帝が周辺の君主に称号を与える仕組みです。

出典:コトバンク「日本国王」、Wikipedia「日明貿易」

7. 勘合という証明書の仕組み

勘合という証明書の仕組み

1404年、明の永楽帝が送った使者が義満に勘合をもたらし、正式な貿易が始まりました。倭寇の取り締まりを引き受けることが条件でした。

1枚の札を半分に割って持ち合ったと説明されがちですが、これは単純化された話のようです。実際は明の礼部が「日本」の2字を分けて日字号と本字号の勘合を作り、原簿にあたる底簿も用意しました。日本の船は本字の勘合を持参し、寧波や北京で底簿と照合されたと伝わります。

※「倭寇(わこう)」は当時、東アジアの海で活動していた海賊集団です。

出典:コトバンク「勘合」、刀剣ワールド「勘合」

義満が残したものと人柄

金閣や能など、義満が支えた文化はいまも残っています。あわせて、記録から見える人柄や死後の出来事も見ていきます。

8. 3つの様式が重なる楼閣

3つの様式が重なる楼閣

金閣の正式な名は鹿苑寺で、義満の法号の鹿苑院殿にちなみます。もとは西園寺公経が営んだ山荘で、1397年に義満が譲り受けて造りかえました。更地から建てた別荘ではありません。

建物は下から順に、公家の寝殿造、武家造、禅宗の仏殿造と、層ごとに様式が違います。

今の建物は1950年に焼失した後、1955年に再建されたものです。

※「鹿苑寺(ろくおんじ)」は金閣寺の正式な名前です。

出典:京都市公式サイト、臨済宗相国寺派 金閣寺 公式サイト

9. 世阿弥を見出した舞台

世阿弥を見出した舞台

1374年ごろ、京都の今熊野で猿楽を見た義満は、その芸に強く引かれました。舞台に立っていたのは40代の観阿弥で、その子の世阿弥は数え12歳でした。

能を大成させたのは世阿弥ひとりではなく、観阿弥・世阿弥の父子です。

義満の死後、世阿弥は冷遇され、1434年には72歳で佐渡へ流されています。

※「猿楽(さるがく)」は能の古い呼び名です。

出典:ジャパンナレッジ「世阿弥という人」、国立劇場 能楽への誘い

10. 一休さんとの対決は創作

一休さんとの対決は創作

一休宗純は1394年に生まれました。義満は1408年に亡くなっており、二人が同じ時代を生きたことは確かです。ただし義満は1395年に将軍職を義持へ譲っていて、一休が物心つくころには前将軍でした。

とんち話が生まれたのは江戸時代です。1668年に出た仮名草子『一休咄』が、一休を伝説の人物にしていきました。

※「仮名草子(かなぞうし)」は江戸時代初期に仮名で書かれた読み物です。

出典:コトバンク『一休咄』、国立国会図書館 レファレンス協同データベース

11. 時間にうるさかった将軍

時間にうるさかった将軍

機械の時計がない時代ですが、義満は時間に厳しく、遅れた者を罰した記録が残っています。1381年の内大臣大饗に遅刻した公家の御子左為遠は、翌日に出仕したところ追い出されました。

1394年に興福寺で営まれた常楽会では、夜明けから桟敷に座り、遅れて来た公家や武家を同席させなかったと伝わります。

※「大饗(だいきょう)」は大臣が開く公式の宴会です。

出典:早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)

12. 贈られかけた上皇の称号

贈られかけた上皇の称号

義満は1408年5月6日に亡くなりました。その3日後、後小松天皇の朝廷は義満に太上天皇の尊号を贈ろうとします。上皇の称号を皇族でない人物に贈った例はなく、異例の話でした。

ところが宣下は実現しません。辞退したのは4代将軍の義持ですが、管領の斯波義将の強い反対が決め手だったとする見方が有力です。

前例のなさや、義持と義満の不和など、辞退の背景には諸説があります。

※「太上天皇(だいじょうてんのう)」は位を退いた天皇、つまり上皇を指す称号です。

出典:慶應義塾大学学術リポジトリ「足利義満の太上天皇尊号宣下」、Wikipedia「足利義持」

まとめ

足利義満は、1392年に南北朝の争いを収め、明との貿易で幕府の財政を支えた将軍です。ただし合一の条件だった約束は守られず、南朝の子孫による抵抗はその後も続きました。

明との外交では自ら日本国王臣源と名乗り、当時から批判を受けています。死後に太上天皇の尊号を贈られかけた話も、義満が天皇に近い場所まで進んだことを示しています。

金閣や能といった文化が今日まで伝わる一方で、遅刻に厳しかったという記録も残っています。

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更新日:2026年9月30日(水) 03:44

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