南北朝時代は、14世紀の日本で天皇家が二つに分かれ、京都の北朝と吉野の南朝が並び立って争った時代です。
後醍醐天皇の建武の新政が崩れたことをきっかけに始まり、約60年にわたって全国各地で激しい戦乱が繰り広げられました。
二人の天皇が同時に存在するという日本史でも例を見ない異例の時代であり、その複雑な情勢の裏には意外なエピソードが数多く残されています。
そんな南北朝時代にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 天皇がふたり並んだ時代

南北朝時代は二人の天皇が同時に立ち、それぞれが自分こそ正しい朝廷だと強く主張していました。
京都の北朝と吉野の南朝に分かれ、約60年もの長きにわたって、日本の中心が二つに割れてしまうという、世界的に見ても珍しい状況が長く続いていたと伝えられています。
2. 神器までもがふた組に

天皇の証とされる三種の神器(鏡・剣・玉のこと)も、北朝と南朝でそれぞれ別々に用意されていました。
どちらが本物の神器を持っているのかという点は、自分こそが正統な天皇なのだと広く世の中に示すための、とても大切な根拠の一つになっていたと考えられています。
3. 六十年も割れていた国

南北朝の対立は一時のちょっとしたもめ事ではなく、なんと60年近くもの長きにわたって続いた時代でした。
二つの朝廷が争いながらも同時に存在し続け、各地の武士たちもどちらに味方するか、その時々の損得をよく見ながら、何度も態度を変えていたといわれています。
4. だまし討ちの末の合体

長く続いた南北朝の対立は、北朝が南朝へ和解を持ちかけるという形で、ようやくその幕を下ろすことになりました。
神器を返せば交代で天皇を出すと約束(両統迭立の約束)しておきながら、実際にはその約束が果たされなかったとされ、どこか後味の悪い終わり方になってしまったようです。
5. 派手好きなバサラ大名

この時代には婆娑羅(ばさら)と呼ばれる、とても華やかで型破りな振る舞いを好む大名たちが次々と現れました。
豪華な衣装や大胆な行動で身分の上下をあまり気にせず、それまでの古い常識を堂々とくつがえしていく、自由な気風を示し、人々を大いに驚かせていたのです。
6. 山あいに築かれた南朝

南朝の拠点となった吉野は、奈良県の南部に広がる、たいへん険しい山々に深く囲まれた土地にありました。
攻めにくく守りやすいというその地形を上手に生かし、都を追われた後醍醐天皇たちは、この奥深い静かな山の中に朝廷を構え、長いあいだ抵抗を続けていったのです。
7. 悪い意味ではない悪党

当時使われていた「悪党(あくとう)」という言葉は、単なる悪い人ではなく、既存の支配に従おうとしない武士や集団のことを指していました。
年貢を拒んだり実力で土地を奪ったりと、新しい時代を力強く動かす存在として、世間からかえって熱い注目を集めていたのです。
8. 海へ投げ込まれた神剣

南北朝の混乱のさなか、神器の一つである大切な剣が海の底へと沈んでしまったという伝説が、今に語り伝えられています。
古く壇ノ浦の戦いで失われた剣とも重ねて語られ、正統の証をめぐる当時の人々の強く切実な思いがうかがえる、たいへん印象深い逸話となっています。
9. 二つの朝廷がひとつに

長いあいだ対立していた南朝と北朝は、最終的に一つの朝廷へとまとめられ、1392年にようやく統合されることになりました(明徳の和約)。
これによって長く続いた分裂の時代は終わりを迎えましたが、その裏側では数々の駆け引きと、果たされることのない多くの約束が交わされていたようです。
10. あきらめない後醍醐天皇

後醍醐天皇は、一度は遠く離れた隠岐の島へと流されながらも、決してあきらめることなく、天皇が中心となる政治を目指し続けました。
その並はずれて強い意志がやがて南朝を生み出し、長く続いていく南北朝の動乱を引き起こす、たいへん大きなきっかけになったのです。
11. 九州にもあった別政府

南北朝の争いは京都の周辺だけにとどまらず、遠く離れた九州の地にも、もう一つの拠点となる政府がしっかりと置かれていました。
征西府(せいせいふ)と呼ばれたこの組織を通じて、懐良親王(かねながしんのう)ら南朝方の勢力が一時期この地で、かなり大きな力を保っていたとも今に伝えられています。
更新日:2026年6月19日(金) 10:23

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