三蔵法師(玄奘)の雑学10選!顔が良すぎて生贄に

三蔵法師は、7世紀の唐からインドへ渡り、大量の仏典を持ち帰った玄奘(げんじょう)という僧のことです。

『西遊記』では孫悟空たちに守られる頼りない僧として描かれますが、実際の玄奘は国の禁を破ってひそかに旅立ち、水の尽きる砂漠や雪の峠を越えて17年をかけてインドを往復した人物でした。

しかも「三蔵法師」という呼び名そのものが、実は玄奘だけを指す言葉ではありません。

そんな三蔵法師にまつわる雑学を10個ご紹介します。

1. 三蔵法師は個人名ではない

三蔵法師は個人名ではない

「三蔵法師」は個人名ではなく、経・律・論の三蔵に通じた僧に贈られる敬称で、鳩摩羅什や真諦、不空、義浄なども三蔵法師です。

日本人でこの号を得たのは霊仙ただ一人とされ、804年の遣唐使で最澄や空海と同じ船団で唐へ渡り、811年に三蔵の号を授けられています。

※「経・律・論」は釈迦の教え、戒律、その注釈という仏教の三分野をまとめた呼び方です。

2. 国禁を破って旅立った僧

国禁を破って旅立った僧

当時の唐は自国民の出国を禁じており、玄奘は許可を申請しましたが下りず、貞観3年、629年に国禁を破って旅立ちました。

瓜州には涼州都督から玄奘を捕らえよという通達が届きましたが、仏教徒の役人・李昌が本人の前で文書を破り捨て、西へ行けと促したと伝わります。

※「瓜州(かしゅう)」は現在の甘粛省にあった、西域へ向かう道の途中の町です。

3. 孫悟空のモデル候補の男

孫悟空のモデル候補の男

瓜州で弟子となった胡人の石槃陀は、共犯にされるのを恐れ、玉門関の近くで夜に刀を抜いて玄奘に近づきましたが、経を唱える姿を見て引き返しました。

この石槃陀が孫悟空のモデルの有力候補ですが、魯迅の無支祁説や胡適のハヌマーン説もあり、定説ではないようです。

※「石槃陀(せきばんだ)」は玄奘の密出国を助け、道案内をつとめた西域出身の人物です。
※「無支祁(むしき)」は中国に伝わる猿に似た水の妖怪、ハヌマーンはインドの猿の神です。

4. 砂漠で5日4夜水を失う

砂漠で5日4夜水を失う

莫賀延磧で道に迷った玄奘は、水を飲もうとして革袋を取り落とし、命綱の水を失ってしまいました。

5日4夜まったく水を口にできずに倒れましたが、第5夜に吹いた涼しい風で意識が戻り、起き上がった馬が別の方向へ歩き出して、草地と池にたどり着いたと記されています。

※「莫賀延磧(ばくがえんせき)」はゴビ砂漠の一部にあたる砂漠です。

5. 断食で王の引き止めを断る

断食で王の引き止めを断る

高昌国の王・麹文泰が玄奘を国に永久に留めようとしたとき、玄奘は3日間、水も断って抵抗し、王が折れました。

義兄弟の契りを結び、帰りに3年滞在する約束も交わしましたが、高昌国は640年に唐に滅ぼされて王も亡くなり、玄奘がそれを知ったのは帰路の于闐でした。

※「高昌国(こうしょうこく)」は現在の新疆・トルファン付近にあったオアシス国家です。
※「于闐(うてん)」は現在の新疆・ホータンにあたる西域の国です。

6. 生贄に選ばれた話が残る

生贄に選ばれた話が残る

インドを旅していた玄奘は、突伽天神を祀る賊に捕らえられ、秋ごとに容姿の整った男を生贄に捧げる習俗のため、その年の生贄に選ばれてしまいました。

祭壇に上げられたところで突然黒い暴風が吹き荒れて木々をなぎ倒し、恐れをなした賊が玄奘を解放したと伝わります。

※「突伽天神(とっかてんじん)」はインドの女神ドゥルガーのことです。

7. 命じられて書いた報告書

命じられて書いた報告書

『大唐西域記』は玄奘が望んで書いた本ではなく、太宗の命で提出させられた西域の報告書で、646年に全12巻がまとまりました。

口述は玄奘、文章にしたのは弟子の弁機で、これを手がかりにイギリス人カニンガムが1861年から62年にナーランダー僧院の位置を特定しました。

※ナーランダー僧院はインド北東部にあった仏教の一大学問所で、玄奘も学んだ場所です。

8. 大般若経を訳し終えて

大般若経を訳し終えて

晩年の玄奘は600巻におよぶ『大般若経』の翻訳に取りかかり、660年の正月に筆を起こして663年10月に訳し終えました。

その約100日後にあたる664年2月5日に世を去っており、長い旅で持ち帰った経典を訳し切るのを見届けるかのような最期だったと語られることもあります。

※『大般若経』は「だいはんにゃきょう」と読み、般若の教えを集大成した経典です。

9. 葬列に100万余人が集まる

葬列に100万余人が集まる

『大慈恩寺三蔵法師伝』には、玄奘の葬列に長安から500里以内の各地から100万余人が集まり、当日は僧侶と俗人あわせて3万余人が墓のそばで夜を明かしたと記されています。

ただしこれは弟子たちがまとめた伝記に残る数字で、実数をそのまま表すとは限らないようです。

※唐の1里はおよそ560メートルで、500里はおよそ280キロにあたります。

10. 遺骨は日本にも分けられた

遺骨は日本にも分けられた

1942年、南京を占領していた日本軍が中華門外の雨花台で工事中に石棺を掘り当て、銘文から玄奘の頂骨だと分かりました。

そこから分骨が繰り返され、1955年には台湾の日月潭の玄奘寺へ、1981年には奈良の薬師寺へ分けられ、さいたま市の慈恩寺にも納められています。

※「頂骨(ちょうこつ)」は頭のてっぺんにあたる部分の骨です。

更新日:2026年8月3日(月) 11:53

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