コロッセオの雑学13選!剣闘士の食事はほぼ菜食だった

ローマの中心に建つコロッセオは、約2000年前に造られた古代ローマ最大の円形闘技場です。剣闘士の戦いの舞台として、映画や教科書でおなじみの建物でしょう。

ところが建設資金や名前の由来、外壁の片側が崩れたままの理由をたどっていくと、意外な人物や出来事が次々と顔を出します。

そんなコロッセオにまつわる雑学を13個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

コロッセオ誕生の裏事情

まずはコロッセオが建った場所や資金の出どころなど、誕生のまわりの話から見ていきましょう。

1. ネロの池を埋めた跡地

ネロの池を埋めた跡地

コロッセオが建つ場所には、もともと暴君ネロの宮殿ドムス・アウレアの人工池がありました。皇帝が私物化していた土地を埋め立てて、市民みんなが楽しめる娯楽施設に造り替えたのです。

詩人マルティアリスはこの変化を「ローマはローマ自身に返された」とうたっています。

※マルティアリスの詩集『見世物の書』に収められた一節です。

2. 建設資金はユダヤ戦争の戦利品

建設資金はユダヤ戦争の戦利品

70年にエルサレムを陥落させたローマは、神殿の財宝を持ち帰りました。コロッセオはウェスパシアヌス帝が70〜72年頃に着工し、80年にティトゥス帝が完成させています。

1995年に歴史学者アルフェルディが碑文の釘穴の並びから「戦利品で建てた」という一文を復元しており、この財宝が建設資金になったと考えられています。

※碑文は金属の文字が失われ、留めていた釘穴だけが残っていました。復元には異論もあります。

3. 名前の由来はネロの巨像

名前の由来はネロの巨像

当時の正式名はフラウィウス円形闘技場で、コロッセオの呼び名は隣に立っていたネロの巨像「コロッスス」に由来するという説が有力です。

高さ約30mのブロンズ像は太陽神ソルに作り替えられ、コンモドゥス帝の時代には頭を皇帝自身の顔にすげ替えられました。建物の名として定着したのは1000年頃以降のことです。

4. 8万7000人説のからくり

8万7000人説のからくり

4世紀の史料には「8万7000」という数字が残っていますが、これは人数ではなく座席の長さをローマ尺という単位で測った値だとする説があります。

座席の数から見積もると4万5000席ほどで、立ち見の約5000人を加えた約5万人というのが一般的な数字です。

※推定には幅があり、5万〜8万人と紹介されることもあります。

5. 日よけを張ったのは水兵

日よけを張ったのは水兵

外壁の最上部には240個の受け石があり、そこにマストを立てて巨大な日よけの布を張っていました。操作を担ったのは帆の扱いに慣れた艦隊の水兵で、闘技場のそばの兵舎に住んでいたのです。

観客に笑われたと思い込んだコンモドゥス帝が水兵に観客を殺せと命じ、近衛長官に止められたという話まで残っています。

※日よけは「ウェラリウム」と呼ばれ、水兵はナポリ近くのミセヌムを拠点とする艦隊から来ていました。

見世物と剣闘士の素顔

完成したコロッセオでは、どんな見世物が繰り広げられていたのでしょうか。動物や舞台の仕掛けから剣闘士たちの実像まで、順にたどります。

6. こけら落としは100日間

こけら落としは100日間

80年の開場記念の催しは100日間続き、歴史家ディオによると9000頭の動物が仕留められました。ツル同士やゾウ4頭の戦いもあり、女性が動物を仕留める役を務めた記録もあります。

皇帝は品名を刻んだ木の球を客席に投げ、拾った人は食べ物や衣服、馬や奴隷までもらえたそうです。

7. 猛獣を運んだ地下エレベーター

猛獣を運んだ地下エレベーター

アリーナの床下には地下空間が広がり、猛獣を檻ごと舞台へ押し上げる昇降機が備えられていました。ドイツ考古学研究所のベステによると巻き上げ機は60基あり、すべて人の力で回していたと見られます。

2015年には木製の昇降機が1基復元され、270kgを超える重さを持ち上げてみせました。

出典:ドイツ考古学研究所ベステの地下調査(Smithsonian Magazine・2011年)

8. 負けても死ぬとは限らない

負けても死ぬとは限らない

剣闘士は育てるのに費用がかかる高価な存在で、試合で命を落とすのは1〜2割程度だったとされます。墓碑の分析では、死亡時の平均年齢は27歳ほどでした。

開場記念のプリスクスとウェルスの試合は引き分けに終わり、ティトゥス帝は2人に木剣を与えて自由の身にしています。

※試合の中身まで詳しく残っているのは、この一戦だけです。

9. 女性剣闘士の浮き彫り

女性剣闘士の浮き彫り

大英博物館には「アマゾン」「アキリア」と名が刻まれた2人の女性剣闘士の大理石の浮き彫りが所蔵されています。装備は男性と同じですが、兜はつけていません。

添えられた文字は両者とも助命された引き分けを示すと解釈されており、女性の出場はのちの200年に禁じられました。

※1〜2世紀の作で、トルコのボドルム(古代ハリカルナッソス)で出土しました。

出典:大英博物館所蔵の大理石浮き彫り(所蔵番号1847,0424.19)

10. 剣闘士はほぼ菜食だった

剣闘士はほぼ菜食だった

トルコのエフェソスで見つかった2〜3世紀の剣闘士の骨を調べた研究で、主食は小麦や大麦で肉は少なく一般市民と変わらない食事だったと分かりました。

骨に残るストロンチウムの値は市民の約2倍で、植物の灰を溶かした飲み物でカルシウムを補っていたようです。当時は「大麦喰い」とあだ名されていました。

出典:レッシュらの研究チーム(PLOS ONE・2014年)

巨像の引っ越しと廃墟の運命

見世物の時代が終わったあとも、コロッセオの歴史は続いていきます。巨像の行方から石の持ち出し、そして聖地となるまでを追ってみましょう。

11. 巨像をゾウ24頭で移動

巨像をゾウ24頭で移動

128年頃にハドリアヌス帝はウェヌスとローマの神殿を建てるため、ネロの巨像を移すよう建築家デクリアヌスに命じました。像は立てたまま運ばれ、24頭のゾウが引いたと伝わります。

1986年の発掘で台座の基礎が見つかり、コロッセオの北西にはいまもその跡が残っています。

12. 外壁の南側が崩れた理由

外壁の南側が崩れた理由

1349年の地震で外壁の南側が崩れましたが、その地下には古い川の堆積層があって揺れが増幅されやすかったとする研究があります。

その後は石切り場として扱われ、1452年だけで荷車2522台分の石が運び出されました。石はヴェネツィア宮殿やファルネーゼ宮殿などに使われています。

※壁に残る無数の穴は、石をつないでいた鉄の留め具を抜き取った跡です。

出典:フニチエッロらの研究(Annals of Geophysics・1995年)

13. 殉教の伝説が遺跡を救う

殉教の伝説が遺跡を救う

コロッセオでキリスト教徒が殉教したという話はよく知られていますが、それを示す史料は見つかっていません。

それでも1749年に教皇ベネディクトゥス14世はここを殉教者の聖地と定め、十字架の道行きの留を設けて石の持ち出しを禁じました。根拠のない言い伝えが、結果として遺跡を守ったことになります。

※十字架の道行きはキリストの受難をたどる祈りで、その場面ごとの場所を「留(りゅう)」と呼びます。

まとめ

コロッセオはネロが私物化した池の跡地に、ユダヤ戦争の戦利品を元手に建てられたと考えられています。名前の由来も建物そのものではなく、隣に立っていたネロの巨像だったという説が有力です。

見世物の舞台裏では、日よけを操る水兵や地下の昇降機を回す人々が働いていました。剣闘士も毎回命を落とすわけではなく、ほぼ菜食の食事で体をつくっていたようです。

中世以降は石切り場として削られていきましたが、史料のない殉教の言い伝えが最後に遺跡を守りました。見世物の陰で働いた多くの人の手と、思いがけない偶然がこの建物を今に残してきたのです。

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更新日:2026年9月19日(土) 08:14

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