正倉院の雑学12選!宝物は1つも国宝じゃなかった

奈良の正倉院に伝わる約9000点の宝物は、実は国宝に指定されていません。1200年以上前の品々なのに、なぜなのでしょうか。

正倉院は、光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を納めたことから始まった東大寺の宝庫です。その扉は今も天皇の許可がなければ開けられず、毎年秋に封を解いて宝物の点検が行われています。

そんな正倉院にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

正倉院のはじまりと仕組み

まずは、正倉院という名前の由来と、宝物がどのように守られてきたのかを見ていきましょう。

1. 「正倉院」は普通の言葉だった

「正倉院」は普通の言葉だったのイラスト

「正倉院」は、もとは東大寺の宝庫だけを指す名前ではありませんでした。役所や大寺の大切な倉庫を「正倉」と呼び、それが集まる一画を「正倉院」といったのです。

各地の正倉は失われ、東大寺の1棟だけが残ったため、固有名詞のようになりました。ヒノキ造りの高床式の建物で、中は北倉・中倉・南倉の3室に分かれています。

2. 夫をしのぶ皇后の献納から

夫をしのぶ皇后の献納からのイラスト

756年(天平勝宝8歳)、聖武天皇の四十九日に、妻の光明皇后が天皇の大切にしていた品々を東大寺の大仏に納めました。これが宝物の始まりで、その数は600点余りです。

目録『国家珍宝帳』には、遺品を見るたび在りし日を思い、心が砕けそうになるという趣旨の言葉が残ります。献納は全部で5回ありました。

3. 天皇の許しがないと開かない扉

天皇の許しがないと開かない扉のイラスト

宝庫は、天皇の許可がなければ開けられない「勅封」で守られてきました。北倉は奈良時代から勅封が続き、中倉は平安時代から、南倉は明治から加わりました。

毎年秋には天皇の使いが扉の麻縄を切る「開封の儀」を行い、約2か月の点検のあと再び封をします。今は正倉ではなく、宝物を移した近代的な宝庫で行われています。

※勅封(ちょくふう)

4. 宝物が国宝ではない理由

宝物が国宝ではない理由のイラスト

正倉院の宝物は、国宝でも重要文化財でもありません。皇室ゆかりの宝物として宮内庁が管理しているため、文化財の指定の対象外なのです。

一方で建物の正倉は1997年に国宝になりました。世界遺産の条件である「国の法律で守られた文化財」を満たすため、例外的に指定されたといわれ、その翌年には世界遺産に登録されました。

1200年以上守られた理由

宝物が長い年月を生きのびた背景には、保管の工夫と、ちょっとした偶然がありました。

5. 数え方しだいで20万点以上

数え方しだいで20万点以上のイラスト

正倉院の宝物は約9000点とされますが、数え方によっては20万点を超えます。差が出るのは、布の断片などの染織品をどう数えるかです。

宮内庁正倉院事務所の研究者によると、20万点は整理が済んでいない染織品まで1点ずつ数えた場合の数だそうです。

※染織品(せんしょくひん)は、布や織物でできた品のことです

出典:宮内庁正倉院事務所(2022年)

6. 1200年残った秘密は杉の箱

1200年残った秘密は杉の箱のイラスト

宝物が残った大きな理由は、杉の箱「唐櫃」での保管でした。勅封で扉がめったに開かれず、中の環境が変わりにくかったことも重なっていました。

正倉の中は外より温度や湿度の変化が小さく、唐櫃の中はさらに小さめでした。唐櫃の湿度は1年中60〜70%ほどだったという測定もあります。

木材の伸び縮みで湿度を調節する「校倉呼吸説」は、のちに否定されましたが、ヒノキの正倉と杉の唐櫃という木の二重の守りが変化をやわらげたのです。

※唐櫃(からびつ)
※校倉(あぜくら)は、三角形の木材を井桁に積んだ造りの倉のことです

出典:宮内庁正倉院事務所(2022年)

7. 最古級の戸籍は裏紙で残った

最古級の戸籍は裏紙で残ったのイラスト

702年(大宝2年)の筑前国(今の福岡県)の戸籍は、現存する最古級の戸籍のひとつで、裏紙として再利用されたおかげで残りました。

戸籍の保存期間は30年。期限が過ぎた紙は、お経を書き写す役所で裏返され、作成から46年後に帳簿の用紙として使われたのです。

本来なら捨てられるはずの戸籍が、こうして今に伝わっています。

※筑前国(ちくぜんのくに)

8. 正倉院展は終戦翌年に誕生

正倉院展は終戦翌年に誕生のイラスト

第1回の正倉院展は1946年、終戦の翌年に奈良帝室博物館(今の奈良国立博物館)で開かれました。戦争中に避難させていた宝物を使った展覧会で、22日間に14万人を超える人が訪れています。

その後、宝庫の開封と点検の時期に合わせ、毎年秋の恒例行事になりました。

出典:奈良国立博物館(2025年)

宝物に眠る意外なドラマ

最後は、宝物そのものにまつわる発見や、思いがけない物語をご紹介します。

9. 世界に1つだけの五絃琵琶

世界に1つだけの五絃琵琶のイラスト

「螺鈿紫檀五絃琵琶」は、五絃の琵琶として世界で唯一残っているとされる楽器です。唐で作られたと考えられ、五絃の琵琶はその後すたれました。

宮内庁正倉院事務所はこれを再現模造し、2018年に完成させました。紫檀やウミガメの甲羅など入手の難しい材料も使い、制作に8年、材料集めからは約15年がかかっています。

※螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)、
※紫檀(したん):マメ科の広葉樹のうち、美しい木目や重硬な性質を持つ銘木の総称です。

10. 名前に「東大寺」が隠れた香木

名前に「東大寺」が隠れた香木のイラスト

香木「蘭奢待」の3文字の中には、「東・大・寺」の字が隠れています。正式な名前は「黄熟香」です。

誰がいつ名付けたのかは分かっていません。香木は燃やして使うため、寺の名をそのまま付けるのは縁起が悪いとして、字の中に隠したという説があります。

切り口には、足利義政・織田信長・明治天皇が切り取ったことを示す付箋があります。ほかにも切ったとする記録があり、調査では切り取った跡が38か所見つかりました。

※蘭奢待(らんじゃたい)、黄熟香(おうじゅくこう)

出典:宮内庁正倉院事務所(2025年)

11. 大仏の足もとで眠っていた大刀

大仏の足もとで眠っていた大刀のイラスト

『国家珍宝帳』の大刀のうち2本は、約1250年も所在が確認されていませんでした。持ち出しを示す「除物」の付箋があり、759年に持ち出されたまま行方不明だったのです。

明治時代、大仏殿の須弥壇の下から金銀で飾られた大刀が見つかりましたが、正体は不明でしたが、2010年、修理のためのX線調査で刀身に「陽劔」「陰劔」の文字が見つかり、珍宝帳の大刀だと判明します。

どうして置かれていたのかは光明皇后の意向で、大仏のそばに納められたとみられています。

※除物(のぞきもの)
※須弥壇(しゅみだん)は、大仏をのせる台座のことです

出典:東大寺・元興寺文化財研究所(2010年)

12. 病人のために納めた60種の薬

病人のために納めた60種の薬のイラスト

光明皇后は756年、最初の献納と同じ日に60種の薬も納めました。目録『種々薬帳』には、病に苦しむ人に広く施すためと記されています。

薬は実際に治療に使われ、減っていったようです。それでも1948年からの調査では、約40種が今も残っていました。

※種々薬帳(しゅじゅやくちょう)

出典:日本大百科全書

まとめ

正倉院は、もとは各地にあった倉庫の呼び名で、東大寺の1棟だけが残ったことで固有名詞のようになりました。始まりは、光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を大仏に納めたことです。

宝物が1200年以上も残ったのは、杉の唐櫃とめったに開かない扉のおかげでした。有名な「校倉呼吸説」は、のちの調査で否定されています。

裏紙として残った戸籍や、大仏の下で見つかった大刀など、宝物には思いがけない物語も眠っています。秋の正倉院展で実物を見るときは、そんな背景にも思いを向けてみてはいかがでしょうか。

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更新日:2026年11月2日(月) 10:02

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