「冷酷な独裁者」として知られる織田信長が、戦で亡くした家来を思って涙を流していたと聞いたら、意外に感じるでしょうか。史料をたどると、イメージとは少し違う人間味のある姿が見えてきます。
若いころは奇抜な格好で町を歩き、天下人になってからは南蛮の品や相撲、夜の城を照らす演出を楽しみました。よく知られた話の中には、後の時代に広まったものも少なくありません。
そんな織田信長にまつわる雑学を13個ご紹介します。
型破りな若き日と意外な素顔
まずは、「大うつけ」と呼ばれた若いころの姿や、涙や甘いものにまつわる信長の素顔を見ていきましょう。
1. 大うつけの格好と父の葬儀

若いころの信長は、湯帷子の袖を外して半袴をはき、髪を茶筅まげにしていました。町なかでは栗や柿、瓜をかじりながら、人に寄りかかって歩いたそうです。
父・信秀の葬儀には袴もはかずに現れ、抹香をわしづかみにして仏前へ投げつけて帰りました。周りは「大うつけ」と噂したと『信長公記』は伝えます。
※湯帷子は湯上がりに着る薄い着物、抹香は焼香に使う粉のお香、大うつけは大ばか者という意味です。
2. 桶狭間の前に舞った敦盛

1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いへ出陣する直前に、信長は敦盛を舞いました。『信長公記』には、「人間五十年、下天の内をくらぶれば」と謡った様子が記されています。
この敦盛は能ではなく、幸若舞という別の芸能の演目です。出陣前の決まりごとだったとよく言われますが、史料ではっきり確かめられるのは桶狭間の場面です。
※幸若舞は、武士の物語を語りながら舞う、室町時代に広まった芸能です。
3. 村木砦の戦いで流した涙

1554年(天文23年)、信長は今川方が築いた村木砦を攻め落としました。朝から夕方まで続いた激戦で、小姓をはじめ多くの家来が傷つき、命を落としています。
本陣に戻った信長は討ち死にした者の名を聞いて「それも、それも」と口にし、涙を流したと『信長公記』は記しています。
※小姓は、主君の身の回りの世話をする若い家来です。
4. 酒は飲まず金平糖を贈られた

宣教師のルイス・フロイスは、信長について「酒を飲まず、食事も控えめ」だったと書き残しています。
1569年(永禄12年)、フロイスは京都で信長に会い、ろうそくとガラス瓶入りの金平糖を贈りました。砂糖がとても貴重だった当時、南蛮から来た色とりどりの砂糖菓子は、めったに見られない品でした。
※金平糖は、ポルトガルから伝わった砂糖菓子です。
5. わが子を奇妙と名付けた父

信長は長男の信忠に「奇妙」、次男の信雄に「茶筅」という幼名をつけました。三男の信孝は「三七」と呼ばれていました。
奇妙は生まれたときの顔が奇妙だったから、茶筅は髪型が茶道具の茶筅に似ていたから、という由来がよく語られます。ただ、いずれも後世の推測で、信長が理由を書き残したわけではありません。
※幼名は、元服して大人になる前の名前です。
南蛮好きで派手好きな天下人
続いては、宣教師との交流やアフリカ出身の家臣、人々を驚かせた大がかりな催しなど、新しもの好きの一面を紹介します。
6. 地球儀に納得し時計は断る

信長は宣教師を呼んで、何時間も質問を重ねました。フロイスの『日本史』によると、地球儀を前に説明を受け、地球が丸いという話を「理にかなう」と受け入れています。
一方で、目覚まし時計を贈られたときは「とても欲しいが、動かし続けるのは難しい」と言って受け取りませんでした。
7. アフリカから来た家臣・弥助

1581年(天正9年)、宣教師が連れていたアフリカ出身とされる男性に会い、信長は召し抱えました。『信長公記』には、26〜27歳ほどで10人力の強さだったとあります。
弥助と呼ばれた彼は、本能寺の変で信忠のいた二条御所で戦い、明智方に降伏して南蛮寺へ送られました。武士だったと記す同時代の史料はなく、その後の消息も不明です。
※南蛮寺は、京都にあったキリスト教の教会です。
8. 天皇も見物した京都御馬揃え

1581年(天正9年)、信長は京都で御馬揃えを行い、正親町天皇も見物しました。織田家の武将たちが着飾って馬で行進し、信長自身も唐織物の豪華な衣装で登場しています。
軍事力を見せつける狙いがあったとされ、天皇に退位を迫る圧力だったという説も出されました。近年は、朝廷側も好意的に受け止めていたとする見方が有力です。
※御馬揃えは、武将や馬を集めて行進させる、今でいうパレードのような催しです。
9. 約1500人を集めた相撲大会

信長は相撲を見るのが大好きで、安土でたびたび大会を開きました。1578年(天正6年)には、近江や京都から約1500人もの力士を集めています。
取組は朝から夕方まで続き、活躍した力士には太刀や衣服が贈られました。100石の領地と屋敷を与えられ、家臣に取り立てられた者もいました。
※近江は、今の滋賀県です。
10. 提灯で安土城を照らした夜

1581年(天正9年)のお盆の夜、信長は安土城の天主と惣見寺に、たくさんの提灯をつるさせました。
さらに家来たちが堀や入り江に船を浮かべ、手に手に松明をともしています。城も城下も光り輝き、水面に映るその景色は、言葉にできないほど美しかったそうです。
※天主は城の中心にそびえる建物で、惣見寺は信長が安土城の中に建てた寺です。
天下人の政策と後世のイメージ
最後は、楽市楽座や比叡山焼き討ちといった政策と、後の時代につくられた信長像を取り上げます。
11. 楽市は信長の発明ではない

楽市楽座は信長の政策として有名ですが、始めたのは信長ではありません。1549年(天文18年)には、近江の六角氏の城下にあった石寺新市が、すでに楽市でした。
信長は美濃の加納や安土で楽市令を出し、商人を集めました。楽座も、同業者組合の座をなくす意味ではなく、座の負担金を免除する意味だったとする研究があります。
※楽市は、市場での税や規制をなくし、誰でも自由に商売できるようにすることです。
12. 比叡山焼き討ちの本当の規模

1571年(元亀2年)、信長は浅井・朝倉氏に味方した延暦寺を攻め、比叡山を焼き払いました。死者は『信長公記』で数千人、フロイスの書簡で約1500人と幅があります。
発掘で焼けた跡がはっきり見つかったのは、根本中堂や大講堂などに限られます。多くの建物は以前から廃れていたとみられ、被害は通説より小さかったという説もあります。
※延暦寺は、比叡山にある天台宗の総本山です。
13. 「殺してしまえ」は後世の句

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は、信長の短気で冷酷な性格を表す句として知られています。ただし本人の作ではなく、江戸時代後期の随筆に、作者のわからない句として書き留められたものです。
実際の信長は、朝廷や将軍を立てるなど、古くからの秩序を重んじる面もあったと、近年は見直しが進んでいます。
まとめ
織田信長には、冷酷な独裁者というイメージだけでは語りきれない顔があります。村木砦の戦いでは討ち死にした家来を思って涙を流し、酒は飲まずに宣教師から金平糖を贈られていました。
新しいものへの関心も強く、地球儀の説明には納得した一方で、手入れできない時計は受け取りませんでした。約1500人の相撲大会や、提灯で安土城を照らす催しも開いています。
「鳴かぬなら殺してしまえ」の句や比叡山焼き討ちの規模のように、後世に形づくられた部分を外すと、また違った信長の姿が見えてきます。
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更新日:2026年10月17日(土) 12:40

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