チャップリンの雑学13選!五・一五事件で首相と共に狙われた男

山高帽にちょびひげ、だぶだぶのズボン姿で世界中を笑わせた喜劇王チャップリン。スクリーンの中の姿はよく知られていても、本人の人生は驚くほど波乱に満ちていました。

幼くして救貧院に入り、出生の記録はいまも見つかっていません。日本では五・一五事件の標的とされ、アメリカからは事実上追放、亡くなったあとには遺体まで盗まれています。

そんなチャップリンにまつわる雑学を13個ご紹介します。

貧しい少年時代と放浪紳士

まずは、チャップリンがスクリーンに登場するまでの話です。貧しい暮らしの中で舞台に立った少年は、やがて世界中が知る放浪紳士の姿を生み出します。

1. 5歳で母の代わりに初舞台

5歳で母の代わりに初舞台

チャップリンが初めて舞台に立ったのは5歳のときで、1894年に歌手だった母の声が公演中に出なくなり、代わりに舞台へ出て歌ったのが始まりでした。

父は家を離れ、母ひとりの暮らしは苦しいものでした。7歳のころには兄とともに救貧院へ入ることになり、つらい少年時代を過ごしています。

2. 出生記録のない大スター

出生記録のない大スター

チャップリンの誕生日は1889年4月16日とされますが、出生を証明する記録は見つかっていません。1952年には英国の情報機関MI5も調べましたが結果は同じでした。

1991年に妻ウーナが亡くなると、本人が鍵をかけてしまっていた1通の手紙が見つかります。そこには、バーミンガム近郊のキャラバンで生まれたと書かれていました。

※手紙は1970年代にジャック・ヒルという人物が送ったもので、MI5の調査記録は2012年に公開されました

出典:MI5ファイル(2012年公開)

3. あべこべで作った放浪紳士

あべこべで作った放浪紳士

おなじみの放浪紳士の姿は、1914年1月に撮影所の衣装部屋で即興で組み立てられました。

すべてをあべこべにするのが狙いで、だぶだぶのズボンに窮屈な上着、小さな山高帽に大きな靴。足のサイズは英国式で5なのに、履いた靴は14だったそうです。

※この姿で初めて公開されたのは、1914年2月7日の『ヴェニスの子供自動車競走』です

出典:charliechaplin.com

4. そっくり大会で落選は本当か

そっくり大会で落選は本当か

チャップリンが自分のそっくりさんコンテストに出て落選した、という話は広く知られています。ただ、それを裏付ける記録はなくて本人も否定しています。

1918年に報じられた話も、歩き方の物まね大会で20位になったというものでそっくりさんを競う大会ではありませんでした。

出典:charliechaplin.com

映画づくりへのこだわり

ここからは、映画を作る側としてのチャップリンを見ていきます。撮影や音楽へのこだわりは、ときに周囲が驚くほどのものでした。

5. 初めての声はデタラメな歌

初めての声はデタラメな歌

チャップリンの声が初めて映画で流れたのは、1936年の『モダン・タイムス』です。トーキーの時代になってもセリフのない映画にこだわった彼が、劇中で聞かせたのは意味のないデタラメ語の歌でした。

曲はレオ・ダニデルフの「ティティナ」。チャップリンが作ったのは、いくつもの言葉を混ぜたような歌詞のほうです。

6. 342回撮り直した名場面

342回撮り直した名場面

1931年の『街の灯』には、同じ場面を342回撮り直した記録があります。目の見えない花売り娘が、放浪紳士をお金持ちと勘違いする出会いの場面です。

ほんの短いやりとりに、チャップリンは納得するまで撮影を重ねました。1シーンの撮り直し回数としてギネス世界記録に認定されています。

出典:ギネス世界記録

7. 楽譜なしで生まれた名曲

楽譜なしで生まれた名曲

チャップリンは楽譜を書くことができませんでしたが、それでもメロディーを口ずさんだり楽器で弾いたりして編曲者に伝え、自分の映画の音楽を手がけています。

1936年に作った曲には1954年に歌詞がつき、「スマイル」として同じ年にナット・キング・コールが初めて録音しました。

※左利きのチャップリンは、弦だけでなく内部の力木や魂柱まで左利き用に組み直したバイオリンを弾いていました

出典:charliechaplin.com

8. ヒトラーと4日違いの誕生日

ヒトラーと4日違いの誕生日

チャップリンとヒトラーは、どちらも1889年4月生まれで、誕生日は4日しか違いません。ちょびひげも似ていたため、1938年のイギリスでは2人を重ねた歌まで作られました。

1940年、チャップリンは初の完全トーキー『独裁者』で、ヒトラーを思わせる独裁者を演じて笑いのめしています。

※歌のタイトルは「Who Is This Man (Who Looks Like Charlie Chaplin)?」です

出典:米議会図書館

日本との縁と波乱の後半生

最後は、日本との意外なつながりと、私生活やアメリカとの関係をめぐる出来事です。亡くなったあとにも、大きな事件が起きています。

9. 五・一五事件の標的だった

五・一五事件の標的だった

1932年5月14日、チャップリンは神戸にいました。翌日には首相官邸での歓迎会が予定されており、決起を狙う海軍の青年将校らはそこでチャップリンも殺害するつもりだったとされます。

しかし当日は予定が変わり、首相の息子と相撲を見に出かけて難を逃れましたが、首相の犬養毅はこの日に暗殺されてしまいました。

※予定が変わった理由は、秘書の高野虎市(こうのとらいち)が警戒したためなど諸説あります

10. 日本を4回訪れた天ぷら好き

日本を4回訪れた天ぷら好き

チャップリンは生涯で4回日本を訪れています。1932年と1961年のほか、1936年には3月と5月の2回立ち寄りました。

好物は天ぷらで、天ぷら屋の花長では車海老を次々とたいらげたという話が店に残っています。岐阜の長良川の鵜飼も1936年と1961年の2回見物していました。

11. 4回の結婚と10代の花嫁

4回の結婚と10代の花嫁

チャップリンは4回も結婚しており、1918年のミルドレッド・ハリスと1924年のリタ・グレイは、どちらも結婚した当時は10代でした。3人目は1936年のポーレット・ゴダードです。

1943年に結婚したウーナ・オニールは18歳、チャップリンは54歳。2人は死別まで連れ添い、8人の子どもが生まれました。

出典:charliechaplin.com「Charlie Chaplin’s Wives」

12. 追放から20年後のオスカー

追放から20年後のオスカー

1952年9月17日、チャップリンは船でアメリカを発ちました。その2日後に米政府は再入国の許可を取り消すと発表します。理由は共産主義への共感の疑いと道徳面の問題でした。

スイスに移り住んだ彼が戻ったのは1972年で、2か月だけ有効なビザでアカデミー名誉賞を受け取り会場の拍手は12分続いたとも言われます。

※翌1973年に『ライムライト』で共同受賞した作曲賞が、競争部門で唯一のオスカーです

13. 盗まれた遺体と身代金

盗まれた遺体と身代金

チャップリンは1977年12月25日にスイスの自宅で亡くなりました。翌年の3月に墓地から棺ごと遺体が盗まれ、犯人は遺族に身代金を要求します。

5月16日に2人組が逮捕され、翌日の約16km離れた村のトウモロコシ畑で遺体が見つかりました。その後墓は約2mのコンクリートで固めて埋葬し直されました。

出典:スイス国立博物館

まとめ

チャップリンは貧しい少年時代を経て、あべこべの衣装から放浪紳士を生み出し、1つの場面を342回撮り直すほど映画づくりに打ち込みました。

その一方で、出生の記録が見つからず、五・一五事件では標的にされ、アメリカからは締め出されるなど、本人の意思とは関係なく大きな出来事に巻き込まれ続けた人でもあります。笑いを届けた人生は、時代の荒波とも隣り合わせでした。

次に放浪紳士の映画を見るときは、20年ぶりにアメリカへ戻った授賞式の話も思い出してみてください。

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更新日:2026年9月19日(土) 10:42

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