教科書でおなじみの「鉄砲3000挺による三段撃ち」。実はこの有名な場面は、研究者の間で見直しが進んでいます。もとになった史料をたどると、鉄砲の数にも撃ち方にも、はっきりしない点が多いのです。
1575年(天正3年)に織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った長篠の戦いは、騎馬隊の突撃や城を救った足軽の物語でも知られています。そんな長篠の戦いにまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
通説がゆらぐ鉄砲と騎馬隊
騎馬隊の突撃と鉄砲の一斉射撃は、長篠の戦いを代表する場面です。まずは、その通説がゆらいでいる3つの話から見ていきましょう。
1. 「武田騎馬隊」の本当の姿

馬に乗った兵だけの「騎馬軍団」があったかは疑問視されています。当時は武将ごとの部隊で、戦うときは馬を下りたとする説がある一方、騎馬武者の集団が突撃したとみる研究者もいます。
当時の馬は体高が約130cm前後で、今ならポニーほどでした。家康は武田の突入を警戒し、柵を念入りに作らせる書状を出したとされます。
出典:千葉市郷土博物館
2. 「鉄砲3000挺」は本当か

太田牛一の『信長公記』の刊本では、決戦で使われた鉄砲は「千挺ばかり」です。ところが牛一の自筆とされる池田家文庫本では、「千」の右上に「三」が書き足されています。
後世の加筆とみる説が一般的ですが、本人の訂正とする見方もあり、実数は分かっていません。3000挺説は、小瀬甫庵の『信長記』などで広まりました。
※「太田牛一」は「おおたぎゅういち」、『信長公記』は「しんちょうこうき」、「小瀬甫庵」は「おぜほあん」と読みます
※「挺(ちょう)」は鉄砲を数える単位です
※「刊本(かんぽん)」は、印刷して出版された本のことです
3. 「三段撃ち」はどこから来た

『信長公記』に三段撃ちの記述はなく、初出は江戸初期の甫庵『信長記』の「千挺ずつ交代で撃たせた」という記述と考えられています。
通説のもとは、1903年(明治36年)の陸軍参謀本部『日本戦史 長篠役』です。1980年(昭和55年)に藤本正行氏が疑問を示し、見直しが進みました。実際の撃ち方は分かっておらず、江戸時代の代表的な合戦図屏風、成瀬家本にも3列の鉄砲隊は描かれていません。
※「初出(しょしゅつ)」は、最初に出てくることです。「参謀本部(さんぼうほんぶ)」は、作戦を立てる陸軍の中心的な機関です
※甫庵の『信長記』にも、「三段撃ち」という言葉そのものは出てきません
設楽原の決戦と武田軍の弱み
続いては、決戦の場となった設楽原の話です。地形の使い方や弾薬の事情から、武田軍が苦しんだ理由が見えてきます。
4. 本当の決戦場は設楽原

決戦の場は、包囲された長篠城から西へ約4km離れた設楽原でした。そのため地元の新城市周辺では、「長篠・設楽原の戦い」と呼ばれています。
戦いの日付は1575年(天正3年)5月21日です。兵力は通説で連合軍3万8000、武田軍1万5000ですが諸説あり、もっと少なく見積もる研究もあります。
※「設楽原」は「したらがはら」、「新城市」は「しんしろし」と読みます
5. 窪地に隠された3万の兵

『信長公記』には「設楽の郷は一段低い土地なので、敵から見えないように軍勢約3万を段々に配置した」とあります。この3万は織田軍だけの数で、「段々に」は配置の様子を表す言葉です。三段撃ちとは関係ありません。
低い土地に兵を隠したのは、武田側に兵を少なく見せ、決戦に誘い出す狙いがあったとみられます。
※「窪地(くぼち)」は、まわりより低くへこんだ土地のことです
※原文は「志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見えざる様に、段々に御人数三万ばかり立て置かる」です
6. 武田の鉄砲と海を渡った鉛

武田氏も鉄砲を使い、1555年(天文24年)の第二次川中島合戦で300挺を投入しました。歴史学者の平山優氏の推計では、長篠でも約1000〜1500挺を持っていた計算になります。
長篠城跡と設楽原の鉄砲玉からは、国内産のほか中国・朝鮮・タイの鉱山の鉛が見つかりました。タイの産地はソントー鉱山です。外国産は織田方、国産は武田方の玉とする見方は推定にとどまります。
平山氏は、勝敗を分けたのは戦術より弾薬などの物量の差だと考えています。
出典:新城市/別府大学
7. 銭を溶かして作った鉄砲玉

山梨県上野原市にある武田方の長峰砦跡の鉄砲玉は青銅製で、鉛の比率が高く、当時の銭に近い成分でした。平山氏によると、長篠城跡の銅製の玉も中国から来た銭と成分が一致したそうです。
武田氏が神社に、賽銭のうち質の悪い銭を差し出させた文書も残るといいます。内陸の武田領では、鉛が手に入りにくかったのでしょう。
※「長峰砦」は「ながみねとりで」と読みます。「砦」は小さな城のことです
※「青銅(せいどう)」は、銅にすずなどを混ぜた金属です。「賽銭(さいせん)」は、神社や寺にお参りするときに納めるお金です
出典:山梨県埋蔵文化財センター
8. 次々に倒れた武田の名将

約8時間の戦いで、武田四天王のうち山県昌景・馬場信春・内藤昌豊や、真田信綱・昌輝兄弟らが戦死しました。四天王の残る高坂昌信は不参加です。戦死者数は史料で1000余人〜1万人と幅があります。
70回以上の合戦で無傷だったという馬場信春は、殿として勝頼を逃がして討死し、『信長公記』も「比類なし」と称えました。
※「武田四天王」は、武田氏の家臣の中でも特に優れた4人を指す呼び名です。内藤昌豊は「昌秀」とも呼ばれます
※「殿(しんがり)」は、退却する軍の最後尾で、追ってくる敵を食い止める役目です
※「比類なし」はほかに比べるものがないほど優れているという意味です
鳥居強右衛門と戦いのその後
最後は、長篠城を救うために命をかけた足軽と、戦いの後に残されたものの話です。
9. 鳥居強右衛門の決死の脱出

食料が尽きかけた5月14日夜、足軽の鳥居強右衛門が長篠城を抜け出しました。川を泳いで下って包囲を抜け、狼煙で成功を知らせて岡崎へ援軍を頼みに走ります。
帰り道で捕まり「援軍は来ない」と叫べと命じられますが、「援軍は近い」と叫んで磔にされました。これは『信長公記』にはない話で、江戸初期の軍記などで知られます。
※「鳥居強右衛門」は「とりいすねえもん」と読みます
※「狼煙(のろし)」は煙を上げて送る合図、「磔(はりつけ)」は柱にしばりつけて処刑する刑罰のことです
10. 敵が旗に描いた強右衛門

強右衛門の最期に心を打たれた人物は、敵の中にもいました。武田方の武士・落合左平次道次は、その磔姿を自分の背旗に描かせたと伝わります。
この旗は1939年(昭和14年)に東京大学史料編纂所が購入して所蔵してきましたが、2024年(令和6年)に大分県の中津市歴史博物館へ寄託されました。中津は、長篠城を守った奥平家ゆかりの地です。
※「落合左平次道次」は「おちあいさへいじみちつぐ」と読みます
※「背旗(せばた)」は、戦場で目印として背中に差した旗です
※「史料編纂所(しりょうへんさんじょ)」は歴史の資料を集めて研究する機関、「寄託(きたく)」は持ち主のまま保管や展示を任せることです
※逆さ磔の図とする説もありましたが、現在は否定する見方が有力です
出典:東京大学
11. 奥平貞昌がもらった名と名刀

長篠城主の奥平貞昌は、約500の兵で籠城し、武田の大軍から城を守り抜きました。その働きを認められ、信長から名前の一字「信」をもらって信昌と名乗っています。翌1576年(天正4年)には、家康の長女・亀姫を正室に迎えました。
家康からは、太刀「大般若長光」も与えられています。室町時代に600貫という高い値がつき、大般若経600巻にかけて名付けられた名刀です。今は国宝となり、東京国立博物館が所蔵しています。
※「籠城(ろうじょう)」は城に立てこもって敵を防ぐこと、「正室」は正式な妻のことです
※「大般若長光」は「だいはんにゃながみつ」と読みます。
※「貫(かん)」は当時のお金の単位、「大般若経」は仏教のお経の一つです
出典:文化遺産オンライン
12. 蜂から始まった火祭り

新城市竹広の信玄塚は、設楽原の戦死者を葬った塚です。すでに亡くなっていた信玄の墓ではありません。
戦いの後、塚から大量の蜂が出て村人を苦しめ、武田の亡霊と恐れた人々が松明で供養したのが「火おんどり」の始まりといわれます。毎年8月15日に長さ2〜3mの大松明を振る、400年以上続く愛知県の無形民俗文化財です。
※「松明(たいまつ)」は、木などを束ねて火をつけた明かりです
※「無形民俗文化財」は、祭りや行事など形のない文化財のことです
まとめ
長篠の戦いは「鉄砲3000挺の三段撃ちが騎馬隊を破った戦い」として語られてきましたが、史料をたどると、鉄砲の数も撃ち方もはっきりしていません。一方で、窪地に兵を隠した信長の工夫や鉛の産地から見える弾薬の差など、勝敗の理由を新しい視点で探る研究も進んでいます。
城を救った鳥居強右衛門の物語や、信玄塚の火おんどりのように、地元で受け継がれてきた記憶も長篠の戦いの一部です。有名な合戦ほど、通説の裏に意外な話が隠れているのかもしれません。
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更新日:2026年10月27日(火) 09:24

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