家老の養子を名乗る偽名で、外国の軍艦に乗り込んだ若者がいました。講和の席に立ったその人物こそ、幕末の長州藩士・高杉晋作です。
奇兵隊をつくり、わずか80人余りの挙兵から藩の流れを変えた一方で、陣中で三味線を弾いていたという粋な一面もありました。そして明治維新を見ることなく、満27歳で亡くなっています。
そんな高杉晋作にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
若き晋作と型破りな行動
晋作が歴史の表舞台に立つのは20代前半のことです。上海への渡航から奇兵隊の結成まで、若い晋作が見たものと起こしたことを追っていきます。
1. 上海で見た外国の支配

1862年(文久2年)、満22歳の晋作は藩の命令で幕府の船・千歳丸に乗り、上海へ渡りました。滞在はおよそ2か月です。
旅行記『遊清五録』には、上海は清に属しているが英仏の属地と言ってもよい、と書かれています。清の人が英仏人に道を譲る様子も記しており、日本も同じ道をたどりかねないと危機感を募らせたと考えられています。
※清(しん)は当時の中国の王朝です。
※「千歳丸(せんざいまる)」「遊清五録(ゆうしんごろく)」と読みます。
2. 建設中の公使館を焼く

1863年1月(文久2年12月)の夜、品川の御殿山で完成間近だったイギリス公使館が焼かれました。火を放ったのは長州藩士13人とされる一団で、晋作のほか久坂玄瑞や、のちの伊藤博文と井上馨も加わっています。
このとき晋作は満23歳です。燃える様子を眺めながら、晋作と久坂は芝浦の宿で酒を飲んでいたと伝わります。
※公使館(こうしかん)は、外国の代表が仕事をする建物です。
※「御殿山(ごてんやま)」「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と読みます。
3. 身分を問わない奇兵隊

1863年(文久3年)、下関の廻船問屋・白石正一郎の屋敷で奇兵隊が結成され、晋作が初代総督に就きました。身分を問わず、志願した者でつくる部隊です。
名簿に残る559名を分析すると、士分格が約49%、農民が約42%を占めていました。残りは町人や社人・僧で、武士の身分でない人が半数をわずかに上回っていた計算です。
※廻船問屋(かいせんどんや)は船で荷物を運ぶ商売の店
※士分格(しぶんかく)は武士の身分やそれに準じる扱い
※社人(しゃにん)は神社に仕える人のことです。
出典:世界大百科事典
藩の命運を背負った交渉と戦い
下関戦争のあと、長州は外国との講和や藩内の争い、幕府との戦いに次々と向き合うことになります。晋作は名前を変えながら、その中心に立ち続けました。
4. 偽名で講和の席に立つ

1864年(元治元年)の下関戦争の講和で、晋作は家老の養子「宍戸刑馬」を名乗り、大紋に烏帽子の正装で英国の旗艦に乗り込みました。
通訳のアーネスト・サトウは、その姿を悪魔のように傲然としていたと回想録に書きました。連合国への賠償金300万ドルは、攘夷は幕府の命令に従っただけという主張もあり、幕府が負うことになりました。
※「宍戸刑馬」は「ししどぎょうま」と読みます。
※大紋(だいもん)は直垂(ひたたれ)の一種の礼服、烏帽子(えぼし)は正装でかぶる帽子です。
※ここでの「悪魔」は、原文ではルシフェルと書かれています。傲然(ごうぜん)は偉そうに構えるさまです。
※攘夷(じょうい)は外国を打ち払おうとする考えです。
出典:アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』
5. 80人余りで始めた挙兵

1865年1月(元治元年12月)の夜、晋作は下関の功山寺で兵を挙げました。最初に集まったのは80人余りで、のちの伊藤博文が率いる力士隊などが加わっています。
このとき晋作は「これよりは長州男児の腕前お目にかけ申すべし」と言ったそうです。この挙兵をきっかけに、晋作たちは藩の主導権を奪い返していきました。
※功山寺は「こうざんじ」と読みます。
※最初の人数は80人とも84人とも言われます。
6. 藩の命令で谷潜蔵に改名

1865年(慶応元年)、晋作は幕府の追及をかわすため、藩の命令で谷潜蔵と名を改めました。ほかにも谷梅之助や備後屋助一郎、三谷和助といった変名を使っています。
備後屋助一郎のように、商人を思わせる名前まで使い分けていたわけです。1867年(慶応3年)には谷家を新しく興す形で、100石を与えられました。
※「谷潜蔵(たにせんぞう)」「谷梅之助(たにうめのすけ)」「備後屋助一郎(びんごやすけいちろう)」「三谷和助(みたにわすけ)」と読みます。
※変名(へんめい)は本名を隠すための別の名前です。
7. 約2万の幕府軍を相手に

1866年(慶応2年)、幕府が長州を攻めた四境戦争で、晋作は海軍総督として小倉口の戦いを指揮しました。兵の数は幕府側の約2万に対し、長州側は約1000だったとされます。
最後は小倉藩が自ら城に火を放ち、退いていきました。晋作が乗った蒸気船の丙寅丸は、藩に無断で買い入れた船だったとも言われています。
※四境戦争(しきょうせんそう)は第二次長州征討とも呼ばれます。小倉口は小倉(今の北九州市)方面の戦場です。
※丙寅丸は「へいいんまる」と読みます。
出典:北九州市
粋な素顔と短すぎた生涯
激しい場面ばかりが語られがちな晋作ですが、三味線や都々逸にまつわる粋な一面も残っています。身近な女性たちとの関係、そして短い生涯の終わりまでを見ていきましょう。
8. 陣中でも三味線を弾く

晋作は戦いの陣中でも三味線を弾いていた、という回想が残っています。命がけの日々のなかでも、芸事を手放さなかったのでしょう。
下関市立東行記念館には、棹を分解して持ち歩ける道中三味線が所蔵されています。長い棹のままでは旅に向かない楽器を、持ち運びやすくした作りです。
※陣中(じんちゅう)は戦いのために軍がとどまっている場所、棹(さお)は弦を張る長い柄の部分です。
※東行記念館は「とうぎょうきねんかん」と読みます。
9. 作者がはっきりしない都々逸

「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」は、晋作の作として広く知られる都々逸です。朝を告げる世界中のカラスを殺してでも、あなたとゆっくり朝寝がしたい、という意味になります。
ただし桂小五郎の作とする説もあり、本当の作者は分かっていません。
※都々逸(どどいつ)は、7・7・7・5の音で作る江戸時代の流行り歌です。「主(ぬし)」は親しい相手を指す言葉です。
※桂小五郎はのちの木戸孝允(きどたかよし)です。
10. 妻の雅と愛人のおうの

晋作の正妻・雅は萩藩士・井上平右衛門の次女で、評判の美人だったと伝わります。一方で晋作のそばには、愛人のおうのもいました。
おうのは晋作の死後に出家して梅処と名乗り、下関・吉田の東行庵で初代の庵主となります。42年間にわたって晋作の墓を守り続け、1909年(明治42年)に亡くなりました。
※「雅(まさ)」「井上平右衛門(いのうえへいえもん)」「梅処(ばいしょ)」「東行庵(とうぎょうあん)」と読みます。おうのは「うの」とも呼ばれます。
※出家(しゅっけ)は僧や尼になること、庵主(あんじゅ)は庵(いおり)を守る主のことです。
11. 下の句を付けたのは望東尼

「おもしろき こともなき世を おもしろく」という晋作の辞世には、看病していた野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を付けたとされます。望東尼は晋作らをかくまった罪で姫島へ流され、晋作の手配で救い出された人です。
臨終の場面とされることが多い句ですが、死の前年に詠まれていたとする説もあります。
※辞世(じせい)は、亡くなる前に残す最後の歌や句です。
※野村望東尼は「のむらもとに」と読みます。姫島(ひめしま)は玄界灘に浮かぶ島です。
※上の句は「世を」ではなく「世に」とする表記も伝わっています。
12. 満27歳、維新を見ずに

晋作は1867年5月(慶応3年4月)、肺結核のため満27歳で亡くなりました。四境戦争のころから病状が悪化し、下関の桜山で療養したのち、市内の新地にあった家で息を引き取っています。
大政奉還のおよそ半年前のことで、晋作は明治維新を見ていません。
※数え年では29歳です。
まとめ
英仏の属地のようになった上海を見た晋作は、公使館の焼き討ちや奇兵隊の結成へと突き進みました。偽名で講和の席に立ち、80人余りの挙兵から藩の主導権を奪い返し、小倉口では海軍を率いています。
その一方で、陣中でも三味線を弾き、都々逸の作者として名前が挙がるような粋な人でもありました。激しさと遊び心をあわせ持った生涯は満27歳で幕を閉じ、明治維新を迎えることはかないませんでした。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」という句は、そうした晋作の生き方を映しているようにも読めます。
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更新日:2026年10月19日(月) 09:19

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