明治時代は、1868年(明治元年)から1912年(明治45年)まで続いた時代です。武士の世が終わり、日本は西洋に追いつこうと、暦もお金も髪型も驚くほどの速さで変えていきました。
ただ、新しい制度は庶民にとって戸惑いの連続でした。聞き慣れない言葉を誤解して一揆が起きたり、郵便箱を便所と間違えたりと、今では想像しにくい出来事も数多く残っています。
そんな明治時代にまつわる雑学を13個ご紹介します。
暦とお金がひっくり返った
明治に入ると、時間やお金の仕組みそのものが大きく作り変えられました。まずは暦とお金、時刻にまつわる話です。
1. 12月がたった2日で終わった年

1872年(明治5年)、政府は暦を太陰暦から太陽暦に切り替えると突然発表しました。12月3日が1873年(明治6年)1月1日となり、この年の12月はわずか2日で終わったのです。
発表から新年まで、残された時間は23日ほどでした。大隈重信の回想によると、翌年にある閏月の分まで役人に給料を払うのを避けたいという事情があったそうです。
※閏月は旧暦で季節のずれを直すために入れる月で、その年は1年が13か月になります。
2. 1円の価値は物差しで変わる

明治時代の1円が今のいくらにあたるかは、何を基準にするかで大きく変わります。企業物価指数で比べると、1912年(明治45年)の1円は約1330円です。
ところが警察官の初任給で比べると、1886年(明治19年)の1円は2万〜4万円にもなります。当時は物の値段に比べて、人の給料が低い水準だったためと考えられます。
出典:国立国会図書館レファレンス協同データベース
3. 大臣より月給が高い外国人

明治政府は、西洋の技術や制度を学ぶために多くの外国人を雇いました。「お雇い外国人」と呼ばれた彼らには、破格の給料が払われています。
1871年(明治4年)、造幣寮で働くイギリス人キンダーの月給は1045円でした。政府の最高職である太政大臣の800円を上回る金額です。
※造幣寮は、現在の造幣局の前身にあたる役所です。
4. 正午は大砲の音で知った

1871年(明治4年)から、東京では毎日正午に皇居の中で空砲が撃たれるようになりました。時計がまだ行き渡っていない時代に、大きな音で昼を知らせたのです。
この音は「ドン」や「昼ドン」の愛称で親しまれました。1929年(昭和4年)にサイレンへ切り替わるまで、半世紀以上も東京の昼を告げ続けました。
文明開化が生んだ騒動
西洋の文化が一気に入ってきたことで、街や暮らしにはさまざまな騒ぎが起こりました。
5. 郵便箱を便所と間違えた人

郵便が始まって間もない明治初期、街角の郵便箱を便所と勘違いした人がいたそうです。「郵」の字を形の似た「垂」と読み、「垂便箱」だと思ったという話が残っています。
当時は立小便が禁止されたばかりで、困っていた人も多くいました。1873年(明治6年)の新聞にも、郵便箱に用を足した男性の記事が載ったとされます。
※「垂便(たれべん)」の話は、郵便制度をつくった前島密の回想『郵便創業談』に出てきます。
6. ちょんまげは強制ではなかった

1871年(明治4年)の散髪脱刀令は、髪型を自由にしてよいという法令でした。ちょんまげを切れという命令ではなかったのです。
そのため、1873年(明治6年)ごろの東京でも、ちょんまげ姿の男性がまだ多数派でした。同じ年に明治天皇が髪を切ったことも後押しとなり、1883年(明治16年)ごろには東京の男性の約9割が短髪になりました。
※「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」は、刀を差さずに歩くことも自由にした法令です。
7. 裸や立小便が禁止された

1872年(明治5年)、東京で違式詿違条例という決まりが定められました。裸で出歩くこと、肩を出すこと、立小便、入れ墨などが取り締まりの対象です。
どれも江戸の町では珍しくない光景です。急いで禁止した背景には、日本を訪れる外国人の目がありました。
※「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」は、今の軽犯罪法にあたる決まりです。
8. 天皇の牛肉食に行者が乱入

1872年(明治5年)の正月、明治天皇が牛肉を食べました。日本では長く肉食が避けられてきたため、大きな出来事でした。
これに強く反発したのが、山で修行する行者たちです。約1か月後、10人ほどが「肉食で国が穢れた」と皇居に押し入り、4人が射殺されました。
※押し入ったのは、木曽の御岳山を信仰する「御岳行者」と呼ばれる人たちです。
新しい制度に戸惑う庶民
徴兵や名字、学校など、新しい制度は庶民の暮らしにも直接かかわりました。慣れない決まりに、人々は大いに戸惑います。
9. 「血税」を生き血と誤解

1872年(明治5年)、政府は徴兵制を始めるにあたり、兵役を「血税」と表現した文書を出しました。西洋の言い回しを訳したもので、身をもって国に尽くすという意味です。
ところが本当に生き血を取られると受け取った人々もいて、翌年から西日本を中心に一揆が相次ぎ、処分者が1万人を超えた地域もあります。
※この文書は「徴兵告諭(ちょうへいこくゆ)」、一連の一揆は「血税一揆」と呼ばれます。
10. 徴兵を逃れるための手引き書

1873年(明治6年)の徴兵令には、多くの免除規定がありました。家の主や跡継ぎ、270円を納めた人などは兵役を免れることができたのです。
そこで、免除の条件を解説した『徴兵免役心得』という本まで出回りました。跡継ぎになるため養子に入る人もおり、初期に徴兵できたのは若者のごく一部でした。
11. 名字を名乗ることが義務に

1870年(明治3年)、それまで公に名字を名乗れなかった平民にも、名字が許されました。しかし、税が増えるのではと警戒して、名乗らない人が多かったといいます。
そこで1875年(明治8年)、名字を名乗ることが義務になりました。徴兵の事務に支障が出るという、陸軍の訴えがきっかけでした。
12. 学校に通う子は3割未満

1872年(明治5年)、全国に小学校をつくる学制が定められました。ところが翌年、実際に学校へ通っていた子どもは約28%にとどまります。
授業料の負担や、子どもが家の働き手だったことなどが背景にあったと考えられています。女子は約15%とさらに低く、就学率が9割を超えたのは1905年(明治38年)ごろでした。
出典:文部科学省『学制百年史』
13. 鉄道は品川から走り出した

日本の鉄道開業は、1872年(明治5年)の新橋〜横浜間とされることがよくあります。しかし実は、その4か月ほど前に品川〜横浜間で仮の営業が始まっていました。
正式開業時の運賃は、いちばん安い下等で37銭5厘でした。上等は1円12銭5厘と、下等の3倍にあたります。
※仮開業は6月12日(旧暦5月7日)、正式開業は10月14日(旧暦9月12日)です。
※1865年(慶応元年)には、長崎でグラバーが蒸気機関車を試走させたとも言われています。
まとめ
明治時代は、暦やお金、髪型、学校や兵役まで、暮らしの仕組みが一気に入れ替わった時代でした。12月がわずか2日で終わったり、正午を大砲で知らせたりと、今では考えにくい出来事も次々に起きています。
一方で、新しい制度はすぐに受け入れられたわけではありません。「血税」を生き血と誤解した一揆や、就学率3割未満から始まった学校のように、庶民の戸惑いや抵抗も大きなものでした。
今では当たり前の郵便や鉄道、名字の制度も、こうした試行錯誤の中から根づいていきました。身近なものの始まりを知ると、明治という時代が少し近く感じられるかもしれません。
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更新日:2026年9月23日(水) 05:40

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