フランクリンの雑学12選!毎朝全裸で過ごす日課があった

アメリカ建国の父のひとりで、100ドル札の肖像としても知られるベンジャミン・フランクリン。印刷工から身を起こし、科学者や外交官としても活躍した人物です。

その素顔をたどると、未亡人になりすましての新聞への投書や大まじめなおならの研究など型破りな話が次々に出てきます。家族との確執や、明治の日本との意外なつながりもありました。

そんなベンジャミン・フランクリンにまつわる雑学を12個ご紹介します。

早熟な少年時代と風刺の筆

まずは少年時代の早熟ぶりと、大人になっても衰えなかったユーモアたっぷりの文章から見ていきましょう。

1. 未亡人を装った16歳の投書

未亡人を装った16歳の投書

1722年、16歳のフランクリンは兄の新聞に中年の未亡人サイレンス・ドゥーグッドを名乗って投書しました。自分の名では載らないと考え、筆跡を変えて夜に印刷所の扉の下から差し入れたのです。

投書は14通掲載され、求婚の申し出まであったとか。正体を知った兄は激怒し、これが故郷を飛び出す一因になりました。

※兄ジェームズの新聞は「ニューイングランド・クーラント」で、投書は1722年4月から10月にかけて載りました。

2. 11歳で自作した水泳用のヒレ

11歳で自作した水泳用のヒレ

11歳ごろのフランクリンは、速く泳ぐために手にはめる楕円形の板を自作しました。長さ約25cmで親指を通す穴があり、足用のサンダル型も試したものの効果は薄かったと本人が書いています。

生涯泳ぎが得意で、20歳のころにはロンドンのテムズ川を約5km泳いだ逸話も残ります。1968年には国際水泳殿堂に名を連ねました。

※殿堂入りは選手としてではなく、水泳の普及に貢献した人物をたたえる功労者部門でのものです。

3. おならを香水にする研究案

おならを香水にする研究案

1781年ごろ、フランス滞在中のフランクリンはブリュッセルの王立アカデミーの懸賞をもじった風刺文を書きました。おならを心地よい香りに変える薬を研究すべきだという、大まじめな提案です。

実際には提出せず、友人のリチャード・プライスに送ったところ、気体研究で知られる化学者プリーストリーの手にも渡りました。

※「Fart Proudly(堂々と屁をこけ)」という題は1990年に出た選集の書名で、本人がつけたものではありません。

4. 七面鳥を国鳥にという説の真相

七面鳥を国鳥にという説の真相

国鳥に七面鳥を推したという話は有名ですが、正式に提案した記録はありません。もとになったのは1784年に娘サラへ宛てた私信です。

退役将校の団体の記章に描かれた鷲が七面鳥に見えるという話題から、白頭鷲を魚を横取りする性格の悪い鳥だとけなし、七面鳥のほうがずっと立派で勇気ある鳥だと持ち上げました。

家族と私生活の意外な素顔

偉人として語られることの多いフランクリンですが、家庭や私生活には教科書に載らない話がいくつもあります。

5. 式を挙げずに結ばれた妻デボラ

式を挙げずに結ばれた妻デボラ

1723年、17歳でフィラデルフィアに着いたフランクリンは、パンを両脇と口に抱えた姿をデボラ・リードに笑われました。デボラは別の男性と結婚しますが、夫はイギリスに妻がいたと分かり失踪します。

離婚も死亡も証明できず、再婚すれば重婚罪になりかねません。そこで2人は1730年、式を挙げない事実婚を選んだのです。

※船旅を怖がったデボラは渡欧せず、1764年に夫がイギリスへ渡ってからは再会できないまま1774年に亡くなりました。

6. 愛人は年上をと勧めた手紙

愛人は年上をと勧めた手紙

1745年の私信では、まず結婚を勧めたうえで、愛人を持つなら年上を選べと説いています。理由は会話上手や妊娠の心配がないことなど8つで、最後は「とても感謝してくれる」でした。

生前は公表されず、19世紀の著作集では下品だと外されています。広く知られたのは、20世紀半ばにわいせつ規制の裁判で引用されてからのことでした。

7. 絶縁した長男への冷たい遺言

絶縁した長男への冷たい遺言

長男ウィリアムは婚外子で、ニュージャージー最後の植民地総督を務めた人物です。独立戦争では国王側に立って父と対立し、戦後に2人が会ったのは1785年の1度きりでした。

フランクリンは遺言でカナダ東部ノバスコシアの土地だけを遺し、「先の戦争で彼が私に敵対したことが、これ以上遺さない理由だ」と明記しています。

※ウィリアムの息子テンプルも婚外子で、テンプルにも婚外子の娘がおり、3代続けて婚外子が生まれています。

8. 奴隷所有者から廃止運動の会長へ

奴隷所有者から廃止運動の会長へ

フランクリンの家には長年にわたり少なくとも7人の奴隷がおり、自分の新聞でも奴隷の売買や逃亡奴隷の広告で収入を得ていました。

ロンドン滞在などを経て考えを改め、1787年に81歳でペンシルベニア奴隷制廃止協会の会長に就任。1790年2月には議会への廃止請願に署名しましたが棚上げされ、約2か月後に世を去りました。

美徳と科学と遺言の真相

最後は、自己改善の手本とされた13の徳目や雷の実験、そして死後に残した基金の話です。よく知られた逸話も、細かくたどると少し違った姿が見えてきます。

9. 日本の十二徳から消えた純潔

日本の十二徳から消えた純潔

フランクリンは自伝で節制や沈黙、勤勉など13の徳目を掲げました。うち「純潔」は、性交は健康か子孫のため以外にめったに用いないという内容で、全面的な禁欲ではありません。

1876年(明治9年)、侍講の元田永孚がこの徳目を進講し、昭憲皇太后がそれをもとに十二徳の御歌を詠まれました。1911年(明治44年)には国定教科書にも載りましたが、13徳と比べると入っていないのは純潔だけです。

※侍講は天皇に学問を講義する役職で、元田永孚は「もとだながざね」と読みます。

※13徳の「謙譲」は友人に高慢だと指摘されて後から加えたもので、本人は「見かけはかなり身についた」と自伝で認めています。

10. 毎朝の日課は全裸の空気浴

毎朝の日課は全裸の空気浴

フランクリンは1768年の手紙で、ほぼ毎朝早起きをして何も着ずに部屋で座り、季節に応じて30分から1時間ほど読書や書き物をしていると記しています。

冷水浴は体への刺激が強すぎるので、代わりに冷たい空気を浴びるという理屈でした。風邪は閉め切った部屋の汚れた空気でうつるとも考えていたのです。

※1776年、宿でジョン・アダムスと1つのベッドに泊まった際も窓の開け閉めで言い合いになり、持論を聞かされたアダムスは「先に眠ってしまい、彼と彼の哲学を置き去りにした」と日記に書いています。

11. 凧の実験で雷は落ちていない

凧の実験で雷は落ちていない

凧の実験では、実は雷は凧に落ちていません。雷雲の近くで糸に電気が誘導されて鍵から火花が出たのを確かめたもので、直撃なら命はなかったかもしれません。

実施日も本人は記しておらず、1752年6月はプリーストリーが後に書いた日付です。同年5月には、フランスのダリバールが別の方法で先に雷の電気を捕らえていました。

※1753年には、ロシアのサンクトペテルブルクで同種の雷の実験をしていたリヒマンが感電死しています。

12. 200年がかりの1000ポンド基金

200年がかりの1000ポンド基金

遺言ではボストンとフィラデルフィアに1000ポンドずつ遺し、修業を終えた若い職人へ低利で貸すよう定めました。100年後と200年後に使い道を決める、気の長い計画です。

1990年ごろ基金はボストンで約450万ドル、フィラデルフィアで約200万ドルに。ボストン分は後にベンジャミン・フランクリン工科大学の資金となりました。

※同じ遺言で、ジョージ・ワシントンには金の握りのついた杖を遺しました。

まとめ

ベンジャミン・フランクリンは16歳で未亡人になりすまして投書し、おならを香水に変える研究を提案するなど、生涯ユーモアを手放さなかった人物でした。

一方で妻デボラとは式を挙げない事実婚を選び、長男ウィリアムとは独立戦争をきっかけに絶縁しています。奴隷を所有していた時期を経て晩年には廃止運動の会長を務めるなど、考えを変えていった人でもありました。

自伝の13の徳目が明治の日本で十二徳として紹介され、教科書に載ったことも意外なつながりといえるでしょう。

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更新日:2026年9月26日(土) 08:31

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