崇徳天皇の雑学11選!怨霊が今はサッカーの守り神

崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安時代の末に生きた第75代の天皇です。

わずか5歳で即位しながら、やがて保元の乱に敗れて讃岐へ流され、都に戻れないまま生涯を終えました。

その悲劇的な最期から、後の世では菅原道真らと並ぶ日本三大怨霊の一人として恐れられ、語り継がれてきました。

一方で百人一首に選ばれた歌の作者としても知られ、恋の歌人という優しい顔も持っています。

そんな崇徳天皇にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. 出生をめぐる叔父子の噂

出生をめぐる叔父子の噂

崇徳天皇は公式には鳥羽天皇の第一皇子ですが、『古事談』という説話集は、祖父の白河法皇と母の待賢門院璋子との間に生まれた子と伝えています。

真偽は定かではありませんが、鳥羽天皇は崇徳天皇を、叔父にあたる子を意味する「叔父子」と呼んだという説も残ります。

2. 数え5歳で立った幼帝

数え5歳で立った幼帝

崇徳天皇が即位したのは1123年、数え年でわずか5歳のときでした。

まだ自分の考えで政治を動かせる年齢ではなく、実際の権力は当時、曽祖父にあたる白河法皇が上皇の立場から国を動かす院政という仕組みのもとに置かれ、幼い天皇に決定の自由はほとんどありませんでした。

3. 三大怨霊で唯一の天皇

三大怨霊で唯一の天皇

崇徳天皇は、菅原道真や平将門と並んで日本三大怨霊の一人に数えられています。

学問の神となった道真や、武士として反乱を起こした将門に対し、選ばれたこの三人のなかで、天皇の位にあった人物は崇徳天皇ただ一人という点が、ほかには見られない大きな特徴といえます。

4. 讃岐へ流された晩年

讃岐へ流された晩年

1156年に起きた保元の乱に敗れた崇徳天皇は、讃岐、いまの香川県へと流されてしまいました。

その後は一度も都の土を踏むことがゆるされず、8年もの長い歳月を、都から遠く離れた讃岐の地で静かに過ごし、ついに1164年、46歳という若さでこの世を去ったと伝えられています。

5. 突き返された血の写経

突き返された血の写経

崇徳天皇は亡くなった人の供養のため、自分の指先の血で五部大乗経という五つの経典を写したと伝わります。

それを都へ納めようとしたものの、後白河院に呪いを込めたものではないかと疑われ、受け取りを拒んで突き返されたという伝承が、いまも語り継がれているのです。

6. 大魔縁となった伝説

大魔縁となった伝説

『保元物語』が伝える伝説では、崇徳天皇は激しい怒りから自分の舌を噛み切り、あふれ出た血で、この国の大魔縁になり皇を民に落とすと誓いを書き付けたとされます。

爪も髪も伸ばし放題にして、生きながら天狗のような恐ろしい姿に変わっていったとも今に語られています。

7. 血にまつわる地名伝説

血にまつわる地名伝説

崇徳天皇が亡くなったとき、後白河院は喪に服さず、地元の国司だけがひっそりと葬送を行ったと伝えられています。

その棺からは大量の血があふれ出たという言い伝えが残り、坂出の周辺には血の宮と呼ばれる場所など、血にちなんだ地名の伝説が今も数多く点在しています。

8. 慰霊のための院号

慰霊のための院号

崇徳天皇の死後、比叡山延暦寺の僧たちによる強訴や、都を焼いた安元の大火といった大事件が続けて起こりました。

当時の人々はこれを崇徳天皇の祟りと結びつけて恐れ、1177年に朝廷は讃岐院という呼び名を改め、崇徳院という院号を贈って御霊を手厚く慰めようとしたのです。

9. 百人一首の恋の名歌

百人一首の恋の名歌

崇徳天皇は、百人一首の77番に選ばれた歌の作者としても親しまれています。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふという一首で、川の流れが岩で二つに分かれてもまた出会うように、いったん離れても再び結ばれたいと願う恋の歌として名高い作品です。

10. 落語になった上の句

落語になった上の句

この百人一首の歌は、崇徳院という古典落語の題材にもなっています。

恋わずらいで寝込んでしまった大店の若旦那が残した上の句だけを唯一の手がかりに、店の奉公人が相手の娘の行方を懸命に探し回るという、笑いを誘う人情味のある人気の演目として今も親しまれています。

11. 球技の神を祀る神社

球技の神を祀る神社

怨霊を恐れた朝廷は1868年、明治天皇の即位の礼を前に、御霊を讃岐から京へ迎えて白峯神宮を建てました。

この神社は蹴鞠を家業とした公家の飛鳥井家の邸宅跡に建てられ、今では球技やスポーツの神様として、サッカー日本代表が奉納した球なども数多く並べられています。

更新日:2026年7月24日(金) 12:20

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