世界一周を初めて成し遂げた人物として名前が挙がるマゼラン。ただ、本人は航海の途中フィリピンで戦死しており、地球を一周して帰り着いたのは残された船と乗組員たちでした。
出発したのは5隻に270人ほど、戻ったのは1隻に18人です。母国ポルトガルに計画を断られてスペインへ移った男が始めた旅は、海峡や太平洋に名前を残しながら、当人のいない結末へ向かっていきます。
そんなマゼランにまつわる雑学を13個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
母国に断られた男の船出
マゼランの航海は、華々しい船出とはほど遠いところから始まりました。まずは出発までの経緯と、その旅がどれほど過酷だったかを見ていきます。
1. 母国に断られて隣国へ

フェルディナンド・マゼランはポルトガルの軍人で、1505年からインド方面の遠征に加わり、1511年のマラッカ攻略にも参加しました。1513年にはモロッコのアザモールで脚に傷を負い、生涯足を引きずったと伝わります。
さらにムーア人との不正取引を疑われ、疑いは晴れたものの1514年ごろに王室の仕事を失います。香辛料の産地へ西回りで向かう計画もマヌエル1世に断られ、1517年、マゼランはスペインのセビリアへ移ります。
世界一周の航海は、母国に断られた末の転職から始まりました。
※アザモールは現在のモロッコ西部にある港町です。
2. 270人で出て18人が帰った

艦隊がスペインを発ったのは1519年9月20日、船は5隻でした。乗員の数は資料によって240人から280人ほどと幅がありますが、270人前後とする説が多く見られます。
この船団のうち帰り着いたのは、1522年9月6日にセビリア近くへたどり着いたビクトリア号1隻だけで、乗っていたのはわずか18人でした。割合にすると1割にも届きません。
このほかに、帰路のカーボベルデ諸島でポルトガル側に拘束された12人ほどが、のちに解放されて帰国しています。
3. 反乱者を3か月さらした

1520年4月、南米のサン・フリアン湾で越冬中に、スペイン人の船長たちが反乱を起こしました。マゼラン側はこれを短時間で制圧し、船長のルイス・デ・メンドサは刺殺され、ガスパール・デ・ケサダは斬首されます。
刀を振るったのはケサダ自身の従者で、助命と引き換えに引き受けたと伝わります。2人の遺体は四つ裂きにされ、3か月ものあいだ杭にかけてさらされました。
一方で40人を超える死刑判決は労役に減らされており、見せしめと労働力の確保を同時に考えた処置だったようです。
※首謀者の一人フアン・デ・カルタヘナと司祭は、8月にこの地へ置き去りにされました。
海峡と太平洋とマクタン島
艦隊は南米の南端を回り込み、未知の大海へ出ていきます。地名として今も残る場面と、その裏側で起きていたことを追いかけます。
4. 海峡の名は死後についた

艦隊が南米大陸の南端に近い水路の入り口を見つけたのは1520年10月21日でした。通り抜けている最中の11月1日が万聖節にあたっていたため、マゼランはここを「万聖節海峡」と名づけます。
全長は約570km、いちばん狭いところで約2kmという入り組んだ水路で、抜け切るまでにおよそ38日かかりました。同行したアントニオ・ピガフェッタは「パタゴニア海峡」と書き残しています。
マゼラン海峡という呼び名は、国王カルロス1世が改めたもので、本人の死後についた名前でした。
5. 太平洋という名の皮肉

海峡を抜けた先の海は驚くほど穏やかで、マゼランはここを「平穏な海」を意味するマール・パシフィコと呼びました。これが太平洋の語源です。
ところが実際の横断は過酷で、1520年11月28日から翌年3月6日にグアムへ着くまで98日、ピガフェッタは3か月20日と記録しました。166人のうち19人が命を落としています。
背景には、食料の多くを積んだ最大の船サン・アントニオ号が海峡で離脱していた事情もありました。名前の穏やかさと中身の落差が際立つ航海です。
※この海は1513年にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが「南の海」と名づけており、太平洋は二つめの名前でした。
6. 泥棒諸島と名づけた島

98日ぶりに新鮮な食べ物にありついた場所が、1521年3月6日に到着したグアムでした。ところが上陸をめぐって行き違いが起き、島の人々であるチャモロの人たちが船に付いていた小舟を持ち去ってしまいます。
マゼランは翌日以降に報復の一隊を上陸させ、家を40軒から50軒ほど焼き、島民7人を殺して小舟を取り返しました。そのうえでこの島々を「泥棒諸島」と名づけています。
持ち物を分け合う島側の習わしと、所有をめぐる考え方の違いが、そのまま地名として残った出来事でした。
※スペイン語ではイスラス・デ・ロス・ラドローネスといい、のちにマリアナ諸島と改称されました。
7. 44年後に焼け跡から出た像

1521年4月14日、セブ島の首長フマボンとその妻が洗礼を受けました。ピガフェッタは当日500人から800人ほど、最終的には約2200人が受洗したと記録しています。
このとき妻に幼子イエスの木像が贈られましたが、渡したのはマゼラン本人ではなくピガフェッタでした。艦隊が去ったあと像の行方は分からなくなります。
ところが1565年4月28日、レガスピ隊の一員が焼け落ちた家の跡で松材の箱を見つけ、中の像は無傷で残っていました。フィリピン最古のキリスト教遺物とされています。
※現在はセブのサント・ニーニョ聖堂に安置され、像はフランドル製と推定されています。
8. 遺体は戻ってこなかった

1521年4月27日、マゼランは近くのマクタン島へ向かいます。首長ラプラプが従うことを拒んだためで、動員したのは約60人、実際に浅瀬を渡って上陸したのは49人でした。
迎え撃つ島民の数はピガフェッタが1500人ほどと目測しています。マゼランは腕と脚に傷を負い、顔を竹槍で突かれて倒れました。
庶子のクリストヴァン・レベロも同じ日に戦死しています。艦隊は身代金を出すので遺体を返してほしいと申し出ましたが、ラプラプ側はこれを断り、遺体が戻ることはありませんでした。
マゼランのいない結末
司令官を失ったあとも、航海とその後始末は続きました。誰が何を持ち帰り、あとに何が残ったのかを見ていきます。
9. 世界一周の一番手は誰か

マゼランには、エンリケという通訳役の従者がいました。1511年のマラッカで18歳ほどのときに奴隷とされ、マレー語を話せたためフィリピンで言葉が通じたと伝わります。
マゼランの遺言では解放と金銭が定められていましたが、義弟のドゥアルテ・バルボサらは認めませんでした。1521年5月1日、フマボンが開いた宴でバルボサら30人近くが殺され、エンリケが手引きしたという説もあります。
マラッカまで戻っていれば史上初の世界一周者ですが、その後の記録はなく確かめようがありません。
10. 反乱者から英雄への反転

サン・フリアン湾の反乱に加わりながら、命を助けられた者もいました。そのひとりがフアン・セバスティアン・エルカーノです。
5か月ほど鎖につながれて労役に就いたのち復権し、1521年9月17日には乗組員の投票で司令官に選ばれました。そして帰国を果たし、国王カルロス1世から地球儀と「あなたは最初に私を一周した」というラテン語の言葉を紋章に使う許可を与えられます。
ただし約束された年500ドゥカートの年金は支払われず、1526年、次の遠征の途上に壊血病で亡くなりました。
11. 1日足りずに帰った船

1522年7月9日、帰路のビクトリア号はカーボベルデ諸島のサンティアゴ島に寄港し、乗組員は自分たちの記録が現地の暦より1日遅れていると気づきます。西へ回り続けたぶん、日付が1日足りなくなっていたのです。
困ったのは信仰面で、祝日や断食の日をずっと1日ずらして守っていたことになるからでした。宮廷でも議論になり、ピエトロ・マルティレ・ダンギエラが太陽を追って西へ進み続けた結果だと説明しました。
日付変更線という考え方につながる、最初の具体例となった出来事です。
※ダンギエラの著書『新世界史』は1530年に刊行され、教皇ハドリアヌス6世に献呈されました。
出典:R.H. van Gent「A History of the International Date Line」(ユトレヒト大学)
12. 7年後に権利は売られた

帰り着いたビクトリア号の積み荷は、丁子381袋、およそ26トンでした。この積み荷は出港した5隻の船の代金を上回る額で売れたとされます。
ただし遠征全体の費用まで取り返せたかどうかは、評価が分かれるところです。そして1529年4月22日、カルロス1世はサラゴサ条約で香辛料の産地モルッカ諸島の権利を35万金ドゥカートでポルトガルへ譲りました。
ヨーロッパでの戦費が理由で、買い戻しの条項は使われないままでした。命がけの航海の成果は、7年後に売り渡されたことになります。
13. マゼラン雲とは無関係

南半球の夜空に見える二つのぼんやりした光は、大マゼラン雲と小マゼラン雲と呼ばれます。ただしマゼランの発見ではありません。
964年ごろにペルシアの天文学者アル・スーフィーが触れ、アラブの航海士イブン・マージドも1465年ごろに「2つの白い雲」と記しています。ピガフェッタも1520年に記録していますが、マゼランの名は付けていません。
ポルトガルの船乗りは「岬の雲」と呼び、学術の世界ではラテン語名が使われていました。マゼランの名で定着したのは、はるか後のことです。
※学術出版で「マゼラン雲」の呼び名が現れたのは、1847年のジョン・ハーシェルの著作とされます。
出典:M. Dennefeld「A History of the Magellanic Clouds and the European Southern Observatory」(arXiv、2020年)
まとめ
マゼランの航海は、母国に断られた末の転職から始まり、反乱者を3か月さらすほどの統率で海峡を抜け、穏やかだからと名づけた太平洋を98日かけて渡りました。本人はマクタン島で倒れて遺体も戻らず、船を持ち帰ったのは、かつて反乱に加わったエルカーノでした。
海峡にも太平洋にも南天の雲にもマゼランの名が残っている一方で、その成果である香辛料の権利は7年後に売り渡されています。こうして並べてみると、この航海が残したのは英雄の物語というより、名前だけが独り歩きしていく不思議さのほうかもしれません。
世界地図で海峡の位置を確かめてみると、また違った感想が出てくるはずです。
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更新日:2026年9月6日(日) 07:42

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