寺子屋と聞くと、寺の一室で子どもたちが筆を走らせている光景を思い浮かべるかもしれません。ところが江戸時代の寺子屋の多くは寺ではなく、師匠の自宅や借家でした。
名前も上方と江戸で違い、教科書は7000種ほどあり、授業料は家の事情しだいで決まっていたといいます。よく語られる識字率の数字も、資料をたどると印象がずいぶん変わります。そんな寺子屋にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
寺子屋という名前の嘘
まずは名前と、教えていた人たちから見ていきます。私たちが思い浮かべる寺子屋の姿は、実際とはずいぶん違っていたようです。
1. 寺ではなかった寺子屋

寺子屋という名前には寺の字が入っていますが、江戸時代の寺子屋の多くは寺ではありません。師匠の自宅や、借りた町家の一室が教室でした。
もともと寺子とは、中世に寺院へ預けられて読み書きを学んだ子どものことを指す言葉でした。やがて学びの場が寺の外へ広がり、僧侶以外の人が教えるようになっても、寺子屋という呼び名だけが残ったと考えられています。寺で開かれた例がなかったわけではありませんが、数のうえでは少数だったようです。
2. 江戸での呼び名は違う

寺子屋という言い方は、もともと上方で使われていた呼び名です。江戸の町では、筆学所や幼童筆学所、手習所、手跡指南などと呼ぶのが普通でした。
屋号に使う「〜屋」は学問の場の名としてふさわしくないと考えられたためとされます。寺子屋という言葉が全国共通の呼び名として定着したのは、明治以降に各地の教育の歴史がまとめられていく過程でのこととみられています。
※寺小屋と書かれることもありますが、寺で学ぶ子を意味する寺子が語源なので、寺子屋が本来の表記です。
3. 師匠に資格はいらない

寺子屋の師匠になるのに、資格試験も免許もありませんでした。字がうまく、教えを乞う人がいれば開くことができたのです。
そのため師匠の身分はさまざまで、僧侶や神官、医者のほか、村役人や浪人、農民、商人も教えていました。女性の師匠もおり、愛知県海部地区の調査では、嘉永年間に女性が師匠を務めていたことが墓石の記録から確認されています。
※嘉永年間は1848年から1854年にあたります。
出典:愛知県総合教育センター研究紀要 第99集「寺子屋師匠の教育力 ― 愛知県海部地区の筆子塚等の調査を通して ―」(2009年)
教室で起きていたこと
では、その教室ではどんな学びが行われていたのでしょうか。教科書から罰、月謝まで順に見ていきます。
4. 教科書は7000種あった

寺子屋の教科書は往来物と呼ばれ、江戸時代のものだけでおよそ7000種が現存しています。往復書簡、つまり手紙のやりとりの形式で書かれたものが多かったことから、この名前がつきました。
内容は驚くほど細かく分かれていました。室町時代から使われてきた『庭訓往来』のような定番のほか、商人向けの『商売往来』、土地の地名や名所を学ぶ『浪花往来』『中仙道往来』などがあり、職業や住む場所に合わせて選ばれていたのです。
出典:国立教育政策研究所教育図書館「往来物デジタルアーカイブ」
5. 全員バラバラの個別指導

寺子屋には学年もチャイムもありませんでした。年齢も性別も進み具合も違う子どもが同じ部屋に座り、師匠は一人ひとりに合わせた手書きの手本を渡していました。
子どもたちは、その手本をひたすら書き写して覚えます。全員に同じことを一斉に教える方式ではなかったので、先へ進む子と基礎を繰り返す子が隣り合っていても差し支えなかったのです。おおむね午前中から昼過ぎまでが学びの時間で、農村では農繁期に休みになる寺子屋もありました。
6. 線香が燃え尽きるまで

寺子屋の罰として記録に残っているものに、捧満と呼ばれるものがあります。水をなみなみと注いだ茶碗と線香を持たされ、線香が燃え尽きるまで一滴もこぼさずに立ち続けるというものでした。
ほかにも、昼食を抜く食止、居残りの留置、しばらく登校を止める謹慎などが伝わっています。最も重いのが破門で、自分の机を背負わされて帰されたといいます。ただし、こうした罰がどれほど一般的だったのかは分かっておらず、記録に残る例として読むのがよさそうです。
※捧満は「ほうまん」と読みます。
出典:江森一郎『体罰の社会史』(新曜社、1989年)
7. 月謝は家の事情しだい

寺子屋には決まった授業料がありませんでした。入門のときに納める束脩は、金1分ほどのこともあれば、200文から300文ほどのこともあり、赤飯や酒肴を持参する形もあったと伝えられています。
その後も盆暮れや五節句といった節目に、100文から1000文ほど、あるいは酒や菓子、野菜といった品を納めるのが通例でした。額は家の事情に応じて変わったので、暮らし向きの厳しい家の子でも通いやすかったと考えられています。
※束脩は、入門のときに師匠へ納める謝礼のことです。
出典:国立国会図書館レファレンス協同データベース「江戸時代、寺子屋の授業料はいくら?」
数字が語る本当の姿
最後は数字の話です。寺子屋の広がりや識字率については、よく知られた数字ほど注意が必要になります。
8. 記録に残る軒数は下限

寺子屋が何軒あったのかは、明治になってから行われた全国調査『日本教育史資料』が手がかりになります。ここに載っている寺子屋は、およそ1万5000軒台です。
ただしこれは、すでに廃業した寺子屋や記録の残らなかったものが数多く抜け落ちた集計で、研究のうえでは実数の下限とみられています。江戸の町だけで1000軒を超えていたともいわれ、幕末には年に300軒を超える新規開業があった時期もありました。
出典:文部省編『日本教育史資料』(1890年から1892年、臨川書店復刻1970年)/利根啓三郎『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(雄山閣、1981年)
9. 世界一という説の出所

江戸時代の識字率は世界一だった、という話を聞いたことがあるかもしれません。ただし学術的には、ほとんど支持されていない見方です。
もとになったのは1960年代から1970年代に示された就学率の推定値で、それがいつのまにか識字率として引用され、さらに高い数字として語られるようになった経緯が指摘されています。よく併記される各国の数字も、調べた年代や方法が異なるため、横に並べて比べられるものではありません。高いとも低いとも判定できない、というのが現在の見方です。
出典:清水一彦「『江戸時代の識字率は世界一』という出版での言説の構成過程」(『出版研究』48号、日本出版学会、2016年)
10. 識字率は線引きで動く

明治14年に長野県北安曇郡常盤村で、15歳以上の男子882人を対象にした識字調査が行われました。証書などの書類を自分で書ける人は4.4パーセント、新聞の論説を読める人は1.7パーセントでした。
一方で、何らかの文字が読める段階まで含めると64.6パーセントに達します。同じ調査であっても、どこに線を引くかで数字は大きく変わるのです。識字率という言葉を見かけたときは、何ができることを指しているのかを確かめる必要がありそうです。
出典:小林民雄『明治14年の識字調査 ― 当時の北安曇郡常盤村の場合 ―』(1973年)
11. 姓名を書けた女性は4割

明治10年に滋賀県で行われた調査では、自分の姓名を書ける人の割合が、男性はおよそ88パーセント、女性はおよそ39パーセントでした。読み書きの基準を自分の名前まで下げても、男女で倍以上の差があったことになります。
滋賀県は当時としては就学率の高い県だったので、この数字がそのまま全国の平均というわけではありません。それでも、寺子屋が広まった地域でさえ学びの機会は均等ではなかったことがうかがえます。
出典:『文部省年報』(明治10年)/八鍬友広「19世紀末日本における識字率調査 ― 滋賀、岡山、鹿児島県の調査を中心として ―」(1990年)
12. 小学校になった寺と民家

1872年に学制が定められ、全国に小学校がつくられていきます。明治8年には2万4303校が開かれましたが、その約40パーセントは寺院を借りたもので、約30パーセントは民家を借りたものでした。
新しい制度は、それまで庶民が学んでいた場所をそのまま使う形で始まったことになります。ただし明治6年の就学率は男子が39.9パーセント、女子が15.1パーセントで、制度が整っても子どもの多くはまだ学校に通っていませんでした。
出典:文部省『学制百年史』(1972年)
まとめ
寺子屋の寺は中世の名残で、江戸の町では筆学所や手習所と呼ばれていました。師匠に資格はなく、僧侶から農民までがそれぞれのやり方で教え、教科書も職業や土地に合わせて7000種ほどがつくられています。
一方で、江戸の識字率が世界一だったという話は根拠が弱く、明治期の調査を見ても、どこに線を引くかで数字は大きく動きます。制度としての学校が始まったあとも、通えない子どもは少なくありませんでした。
各地には、教え子たちが師匠のために建てた筆子塚と呼ばれる石碑が今も残っています。数字の出どころを確かめながら読むと、寺子屋の姿はもう少し立体的に見えてきます。
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更新日:2026年9月7日(月) 08:53

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