江戸の町は、驚くほど頻繁に火事に見舞われていました。
木と紙でできた家が密集し、いったん火が出れば町ごと燃え尽きてしまいます。
そんな町を守ったのが火消しでした。
彼らは水ではなく家を壊して火を止め、屋根に纏を掲げ、時には消火そっちのけで喧嘩に明け暮れたといいます。
今も続く出初式や「叩き起こす」という言葉にも、その名残が息づいています。
そんな江戸の火消しにまつわる雑学を11個ご紹介します。
なぜ火消しが必要だったのか
まずは、江戸がどれほど火事に悩まされていたのかを見ていきましょう。
そして、その火をどうやって止めていたのかも、今の私たちの想像とはかなり違っていました。
1. 大火の数が桁違いだった

江戸時代のおよそ270年間で、江戸を襲った大火は49回にのぼるという集計があります。
同じ期間の大火は、京都が9回、大阪が6回だったとされ、江戸だけが群を抜いて多かったことが分かります。
木と紙でできた家がびっしりと並び、冬から春にかけては乾いた強い風が吹き抜けたことが、被害を大きくした理由と考えられています。
江戸に強力な消防組織が次々と生まれたのは、こうした事情があったからでした。
2. 火消しは家を壊す仕事

江戸の火消しの主な仕事は、燃えている家に水をかけることではなく、まだ燃えていない家を壊すことでした。
風下の建物を鳶口や大のこで手早く引き倒し、燃えるものがない空白地帯を作って火の進む道を断つ、破壊消防と呼ばれるやり方です。
江戸の町家は簡素な造りが多く、そのぶん壊しやすく建て直しやすかったため、結果として延焼を止めるのに役立ったとも言われます。
住まいを守るために住まいを壊すという、切実な選択でした。
※「鳶口(とびぐち)」は先が鉤状になった、家を引き倒すための道具です
3. 唯一のポンプは頼りなかった

江戸にポンプがなかったわけではなく、竜吐水という木製の手押しポンプが1764年に町火消へ配られています。
ただし水をためる箱は小さく、放水が届く距離は3メートルほどだったとされ、桶で水を足しながらでは火の勢いに追いつきませんでした。
幕末に日本を訪れた外国人の記録には、出てくる水の太さは鉛筆ほどだったと書かれています。
改良型が作られても大きくは変わらず、屋根を濡らして延焼を防ぐ程度の道具にとどまりました。
※「竜吐水(りゅうどすい)」は、竜が水を吐く姿に見えることから名づけられたと言われます
町を守った組織と道具
水がほとんど使えない中で、江戸の人々は組織と道具で火に立ち向かいました。
今に残る言葉や行事のルーツも、実はこのあたりにあります。
4. 組の名に使えない文字

町火消は、いろは47文字を一字ずつ組の名前にした「いろは四十八組」として知られています。
ところが実際には、4つの文字が使われませんでした。
「へ」は屁を思わせるため、「ひ」は火に通じて縁起が悪いため、「ら」は下品な隠語を連想させるため、「ん」は語呂が悪く終わりを思わせるため、いずれも外されたと伝えられます。
代わりに置かれたのが百組、千組、万組、本組で、こうして47組に本組を加えた48組がそろいました。
5. 纏は戦国の名残だった

火事場の屋根の上で高々と掲げられる纏は、もともと戦国時代の武将が戦場で掲げた馬印が姿を変えたものと言われます。
太平の世になって馬印の出番がなくなり、火消しの目印として受け継がれました。
町火消に纏を持たせたのは1720年、南町奉行の大岡越前守忠相だとされ、組の士気を高める狙いがあったと伝えられます。
纏は火を消す道具ではなく、ここまでは食い止めるという宣言であり、組の誇りそのものでもありました。
※「纏(まとい)」は組ごとに違う飾りを付けた、火事場で掲げる目印です
6. 出初式は励ましから始まった

消防の新年行事として今も続く出初式の始まりは、1659年1月4日にさかのぼります。
その2年前に起きた明暦の大火で江戸は焼け野原となり、復興の作業に人々が疲れ果てていた時期でした。
老中の稲葉正則が定火消の4隊を率いて上野東照宮の前に整列し、堂々と気勢を上げてみせたのです。
この姿は江戸の人々に大きな希望を与えたと伝えられ、以来、毎年の恒例行事になりました。
はしご乗りなどの技が加わったのは、その後のことです。
火事場を駆けた荒くれ者たち
火消しの主役は、命知らずで気の荒い男たちでした。
頼もしくもあり、時にはかなり困った存在でもあったようです。
7. 真冬も法被一枚の男たち

幕府直属の定火消で実際に火の中へ飛び込んでいったのは、臥煙と呼ばれる火消人足でした。
彼らは火消屋敷に住み込み、真冬でも法被一枚しか身につけなかったと記録されています。
火事となれば肌をあらわにし、全身の彫り物をむき出しにしたまま炎へ向かっていきました。
その向こう見ずな気風は江戸の若者の憧れにもなり、身分のある家の息子が家を捨てて臥煙になってしまう例もあったと伝えられます。
※「臥煙(がえん)」は定火消に雇われた火消人足のことです
8. 木槌で起こされた寝床

臥煙たちは大部屋に集まり、細長い一本の木の枕を並べて雑魚寝していました。
火事が起きると、寝ずの番をしていた者がその枕の端を木槌で力いっぱい打ちつけます。
すると音と衝撃が枕を伝わって走り、寝ていた全員が一斉に跳ね起きるという仕組みでした。
少しでも早く現場へ駆けつけるための工夫だったわけですが、この乱暴な起こし方が「叩き起こす」という言葉の由来になったという説もあります。
9. 消火そっちのけの争い

火事場に一番乗りした組は、組名を書いた木札を軒先に掲げ、纏持ちを屋根に登らせて手柄の証としました。
ところがこれが争いの種になります。
後から来た組が木札をこっそり自分たちのものにすり替えたり、屋根の纏持ちを無理やり引きずり降ろして火事場を横取りしようとしたのです。
1718年には定火消と加賀藩の加賀鳶が消口を争って死者まで出し、将軍の徳川吉宗が関係者を厳しく戒める騒ぎになりました。
※「消口(けしぐち)」は、その火事を消し止めた手柄を指す言葉です
10. わざと火を回した者たち

火消しの多くは、家を建てたり壊したりする鳶職の人たちでした。
町が焼ければ、そのぶん建て直しの仕事が増えます。
そのため中には、本来なら燃えるはずのない場所へわざと火を回し、被害を広げようとする者も現れました。
こうした行いは呼火や継火と呼ばれ、幕府は町にお触れを出して繰り返し戒め、捕らえた火消人足を死罪にした例もあったと記録されています。
多くの火消しは命がけで町を守っていましたが、仕事と火事の近さが生んだ影でもありました。
※「呼火(よびび)」「継火(つぎび)」は、火をわざとまわして火事を広げる行為です
11. 罰を受けたのは半鐘

1805年、芝の芝居小屋での小競り合いをきっかけに、火消しのめ組と相撲の力士たちが大乱闘を起こしました。
め組の喧嘩と呼ばれる事件です。
このとき火消し側は、火事でもないのに火の見櫓の半鐘を打ち鳴らして仲間を呼び集めました。
裁きの場では、騒ぎを大きくした責任を問われて半鐘そのものが遠島、つまり島流しになったと伝えられます。
この裁定は後の脚色とも言われますが、芝大神宮には今もその半鐘が伝わっています。
※「半鐘(はんしょう)」は火の見櫓に吊るされた、火事を知らせる小さな鐘です
まとめ
江戸の火消しは、水をかけて火を消す存在ではありませんでした。
まだ燃えていない家を壊して火の道を断つのが仕事で、頼れる道具といえば、鉛筆ほどの水しか出ない木製ポンプくらいだったのです。
だからこそ最後にものを言ったのは、人の度胸と組の結束でした。
組ごとの纏に誇りを懸け、時には消火より手柄争いに熱くなってしまうほどに。
危うさと勇ましさが背中合わせだったところに、火消しが江戸っ子の憧れであり続けた理由がありそうです。
出初式を見かけたら、その向こうにいた男たちを思い出してみてください。
更新日:2026年8月28日(金) 11:47

お彼岸の雑学11選!インドにも中国にもない日本だけ
競艇の雑学12選!41億円が返された日
コロンブスの雑学10選!アメリカ大陸発見の意外な真実
幕末の雑学10選!黒船来航が260年の鎖国を終わらせた
ワシントンの雑学10選!入れ歯は人の歯で作られていた
キューバ危機の雑学10選!1人が核戦争を止めた
十字軍の雑学10選!アサシンの語源は大麻ではなかった
マチュピチュの雑学11選!発見時すでに住人が2家族