聖地エルサレムを目指した十字軍は、およそ200年にわたって続いた中世ヨーロッパの大きな出来事です。
ところがよく知られた逸話には、後の時代に作られたイメージが混ざっています。アサシンの語源が大麻だという話は俗説と見られていますし、砂糖が伝わったきっかけが十字軍だったという説明も、実は因果が逆さまでした。
戦わずに交渉だけで聖地を得た皇帝や、病を抱えたまま名将を破った少年の王もいます。そんな十字軍にまつわる雑学を11個ご紹介します。
十字軍とはどんな遠征か
まずは全体の枠組みからです。呼び名も、参加者の顔ぶれも、思っているものとは少し違います。
1. 200年続いた聖地への旅

十字軍は聖地エルサレムをイスラム勢力から取り戻すための遠征で、1095年の教皇の呼びかけから1291年のアッコン陥落まで、およそ200年続きました。
国が編成した軍隊ではなく、呼びかけに応じた諸侯や騎士が個人の誓いとして加わる形だったため、顔ぶれは回ごとに大きく変わります。
意外なことに、第1回には在位中の王が1人も加わっていません。当時の主要な王はいずれも教皇と対立していて、最上位の参加者はフランス王の弟でした。
2. 当時は十字軍と呼ばれず

この遠征に加わった人々は、自分たちの旅を巡礼と呼んでいました。衣服に布の十字を縫いつけ、十字のしるしをつけた者と名乗ったのです。
十字軍にあたる英語のcrusadeが記録に現れるのは1706年で、遠征が終わってから400年以上あとのことでした。フランス語のcroisadeでも16世紀です。
つまり十字軍という一つのまとまりは、後の時代の人が名前をつけて整理したものでした。
3. 味方の都市を略奪した遠征

第4回十字軍はエジプトを目指す計画でしたが、ヴェネツィアと結んだ船賃8万5000銀マルクのうち、半分ほどしか払えませんでした。
行き先を変えた軍は1204年4月、同じキリスト教の都コンスタンティノープルを占領し、3日にわたって略奪します。持ち去られた美術品の一部は、いまもヨーロッパの教会に残っています。
ビザンツ帝国が首都を取り戻すのは57年後で、この事件が東西教会の溝を決定的にしたといわれます。
4. 戦わずに聖地を得た皇帝
十字軍のなかには、ほとんど戦わずに目的を果たした遠征もあります。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はアラビア語を解し、イスラムの文化にも通じていました。
彼はエジプトのスルタンと交渉を重ね、1229年のヤッファ条約で10年の休戦と、エルサレムやベツレヘムの譲渡を認めさせます。
ところが出発の時点で教皇から破門されていたため、血を流さずに聖地を回復したのに祝福されず、かえって強く非難されました。
聖地で向き合った王と騎士たち
ここからは人物の話です。敵と味方に分かれながら、どこか筋の通った振る舞いをした人たちが出てきます。
5. 病と戦った16歳の王
エルサレム王ボードゥアン4世は、幼いころにハンセン病の兆しを見つけられました。家庭教師が、遊びでつねられても痛がらないことに気づいたのです。
それでも13歳で即位し、1177年のモンジザールの戦いでは自ら軍を率いてサラディン軍を打ち破りました。このとき彼は16歳で、熱病から回復した直後でした。
病は進み、最期は目が見えず歩くこともできない状態で、20代半ばに亡くなっています。
6. 敵将が届けた果物と雪

リチャード1世が聖地で病に伏せたとき、敵将サラディンが果物と雪を届けたと伝えられます。雪は山から運ばれる貴重品で、王侯どうしの贈り物に使われました。
ただしこの話が載るのは、サラディンに仕えた法官が書いた伝記です。従軍して自分の目で見たことを書いた人物ですが、同時に主君を深く敬愛していました。
騎士道的な人物像はヨーロッパ側でも育ち、ダンテは神曲のなかで、敵であるはずの彼を罰のない場所に置いています。
7. 騎士団が担った金融の役割

テンプル騎士団は1119年ごろとされる時期に、聖地へ向かう巡礼者を守るために生まれました。
やがて、ヨーロッパの支部に財産を預けて証書を受け取り、聖地で同じ額を引き出せる仕組みを整えます。現金を持ち歩かずにすむこの方法は、王侯への融資へと広がっていきました。
対イングランド戦で借金を抱えたフランス王フィリップ4世は、1307年10月13日の金曜日に騎士団を一斉逮捕しています。
※この日を13日の金曜日が不吉とされる由来とする話は、19世紀以降に広まった後付けの説明とみられています。
8. 捕虜になった王の身代金

1250年2月、マンスーラの戦いでフランス軍の攻勢は行きづまり、4月には国王ルイ9世自身がエジプトで捕虜になりました。
解放の条件はダミエッタの返還と、当初100万ベザントという身代金です。交渉で80万まで下がりましたが、それでも王室の年収に迫る額でした。
最初の支払い分すら足りず、資金を持つテンプル騎士団が用立てています。それでもルイ9世は懲りず、20年後にふたたび遠征に出て病死しました。
ヨーロッパに残ったもの
最後は、十字軍が運んだと語られてきたものの検証です。伝わった時期をたどると、話の順番が入れ替わります。
9. 砂糖とレモンは先に届いた

砂糖とレモンは十字軍が持ち帰ったと語られますが、順番はむしろ逆でした。サトウキビは9〜10世紀までにイスラム勢力を経て、北アフリカや南スペイン、シチリアへ広がっています。
レモンも10世紀のアラビア語の農書に記録があり、11〜12世紀には地中海の一帯に育っていました。
十字軍が果たしたのは、聖地で砂糖を大きな規模で作って輸出したことです。アッコン周辺やヨルダン渓谷の農園は、のちのプランテーションの原型とも評されます。
10. アサシンの語源は大麻ではない

暗殺者を指すassassinがアラビア語のハシーシーに由来するのは確かです。ただしこれは大麻を使う者という意味ではなく、ほかのムスリムがニザール派を見下して投げつけた蔑称だったとする見方が主流です。
薬物を組織的に使ったという証拠は、敵対する側の記録にも見当たりません。
若者を薬で操る山の老人の物語を広めたのはマルコ・ポーロで、秘密の楽園の庭という筋書きは彼の創作とされています。
11. 数字を広めたのは商人の子

アラビア数字とゼロが伝わった主な道筋は十字軍ではなく、イスラム支配下のスペインやシチリアを通した学問の交流と、地中海の商業網でした。
転機は1202年にピサのフィボナッチが書いた算盤の書です。彼がこの数字を学んだのは、商人だった父の赴任先である北アフリカのブジーでした。
もっとも普及には数百年かかり、ローマ数字とそろばんを使う人たちとの争いに決着がつくのは16世紀のことです。
まとめ
十字軍という言葉が生まれたのは遠征が終わって400年以上あとで、参加した人々は自分たちの旅を巡礼と呼んでいました。第4回は同じキリスト教の都を襲い、第6回は戦わずに交渉だけで聖地を得ています。
一つの旗印で語られてきた200年は、実際にはばらばらの動機と事情が重なった時間でした。後から名前がつくと、出来事は実際より整って見えるのかもしれません。
砂糖もアサシンも、たどってみると通説とは違う道筋が出てきます。気になった項目があれば、そこから調べてみてください。
更新日:2026年9月5日(土) 08:44

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