幕末の雑学12選!黒船4隻のうち蒸気船は2隻だけ

ペリーが率いてきた黒船4隻のうち、煙を吐く蒸気船は実は2隻だけでした。それでも人々は初めて見る巨大な船に驚き、浦賀の海岸には見物人が集まります。

幕末は、1853年(嘉永6年)の黒船来航から江戸幕府が終わるまでの、15年ほどの短い時代です。外国を追い払えと叫んだ長州がイギリスへ若者を送り、庶民はコレラやはしかに悩まされながら「ええじゃないか」と踊りました。

そんな幕末にまつわる雑学を12個ご紹介します。

黒船と開国が起こした騒ぎ

まずは、黒船の来航と開国をきっかけに起きた、人々の驚きや混乱を見ていきましょう。

1. 黒船は半分が帆船だった

黒船は半分が帆船だったのイラスト

1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に率いてきた黒船は4隻でしたが、煙を吐いて進む蒸気船はそのうち2隻だけでした。残る2隻は、帆で走る船です。

それでも、見たこともない巨大な船に人々は興味津々でした。海岸には見物人が次々と集まり、黒船見物はちょっとしたブームになったといいます。翌年の再来航では9隻に増えています。

※浦賀(うらが)は、今の神奈川県横須賀市にある港町です。

出典:nippon.com/神奈川県立歴史博物館

2. 汽車模型の屋根に乗った役人

汽車模型の屋根に乗った役人のイラスト

1854年(嘉永7年)、再び来航したペリーは、蒸気機関車の模型を幕府に贈りました。実物の約4分の1の大きさで、円形の線路の上を時速30km余りで走ったそうです。

客車は小さく、人が中に入ることはできません。それでも乗ってみたい役人の1人が客車の屋根にまたがり、ぐるぐると回ったことがペリーの記録に残っています。

※幕府(ばくふ)は、将軍を中心とした当時の武士の政府です。

出典:印刷博物館/マイナビニュース

3. 小判が海外へ流れ出た理由

小判が海外へ流れ出た理由のイラスト

開国後、日本の小判が海外へ流れ出しました。原因は金と銀の交換比率の違いで、日本では金の値打ちが銀の約5倍だったのに対し、海外では約15倍あったのです。

外国人は洋銀4枚を小判に替えて持ち出すだけで、洋銀12枚ほどにできました。幕府は1860年(万延元年)に小判を小さく作り直して流出を止めましたが、今度は物価が上がります。

※小判(こばん)は金でできたお金、洋銀(ようぎん)は外国の銀貨です。

出典:日本銀行金融研究所貨幣博物館

4. ブロードウェイを行進した侍

ブロードウェイを行進した侍のイラスト

1860年(万延元年)、幕府は条約の手続きのため、77人の使節をアメリカへ送りました。一行はアメリカの軍艦ポーハタン号に乗り、太平洋を渡っています。

ニューヨークではパレードがブロードウェイで開かれ、数十万人が見物しました。帰りはアフリカの喜望峰を回る航路をとったため、結果として地球を一周したことになります。

※使節(しせつ)は、国の代表として外国へ送られる人たちです。

※同じ年に太平洋を渡った咸臨丸(かんりんまる)は、使節が乗った船とは別の船です。

出典:万延元年遣米使節子孫の会

攘夷から倒幕への意外な転換

外国を追い払えという声は、やがて幕府を倒す動きへと変わっていきます。その途中には、思いがけない方向転換もありました。

5. 桜田門外の変はひな祭りの日

桜田門外の変はひな祭りの日のイラスト

1860年(安政7年)の旧暦3月3日、大老の井伊直弼が江戸城の桜田門の外で浪士に襲われました。この日はひな祭りの節句で、大名が祝いに城へ上がる日でしたが、季節外れの雪が降っていました。

襲ったのは18人で、井伊の行列は約60人いました。雨がっぱを着て刀の柄に袋をかぶせていたため、すぐには刀を抜けなかったとされます。

※大老(たいろう)は幕府の最高職、浪士(ろうし)は主君を離れた武士のことです。

※井伊直弼は「いいなおすけ」と読みます。

出典:文春オンライン

6. 砲撃の2日後にイギリスへ

砲撃の2日後にイギリスへのイラスト

1863年(文久3年)の旧暦5月10日、長州藩は下関で外国船を砲撃し、攘夷を実行に移しました。そのわずか2日後、伊藤博文ら5人の若者が横浜からイギリスへ密航しています。

外国を打ち払う一方で、その技術を学ぼうとしたのです。旅費は、藩が武器を買うために用意したお金を担保に借りました。5人はのちに長州ファイブと呼ばれます。

※藩(はん)は大名が治めた領地、攘夷(じょうい)は外国を追い払おうとする考えです。

※密航(みっこう)は、国の許可を得ずに海外へ渡ることです。

※日付は当時の暦(旧暦)によるものです。

出典:山口県観光連盟

7. 戦った相手と手を組んだ薩摩

戦った相手と手を組んだ薩摩のイラスト

1863年(文久3年)、薩摩藩は鹿児島湾でイギリス艦隊と戦いました。前年に起きた生麦事件で、藩の行列がイギリス人を殺傷したことが発端です。

この薩英戦争で西洋の力を思い知った薩摩は、一転してイギリスに近づきます。1865年(慶応元年)には19人の留学生と使節をひそかにイギリスへ送り、翌年には長州と薩長同盟を結びました。

※生麦(なまむぎ)事件は、今の横浜市で起きた事件です。

出典:国土交通省九州地方整備局

8. 大政奉還に隠れた慶喜の狙い

大政奉還に隠れた慶喜の狙いのイラスト

1867年(慶応3年)、15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷へ返す大政奉還を行いました。ただ、慶喜は政治から身を引くつもりはなかったと考えられます。

徳川家を中心に大名が話し合う、議会のような政治を思い描いていたのです。朝廷も当面は徳川家に任せると答えましたが、倒幕派が王政復古の政変を起こし、戊辰戦争へ進んでいきます。

※朝廷(ちょうてい)は天皇を中心とした政府、政変(せいへん)は政権を力ずくで入れ替える動きのことです。

出典:和樂web

庶民の幕末と時代の終わり

最後は、病気の流行や踊り騒ぎに揺れた庶民の暮らしと、幕末の終わりを紹介します。

9. コレラの呼び名はコロリ

コレラの呼び名はコロリのイラスト

1858年(安政5年)、日本でコレラが大流行しました。かかるとあっという間に命を落とすことから「コロリ」と呼ばれ、長崎では「トンコロリン」とも呼ばれました。

病は長崎から各地へ広がり、江戸でも多くの人が亡くなりました。長崎に入港したアメリカの軍艦ミシシッピー号が持ち込んだという話も伝わっています。

出典:nippon.com/国立公文書館

10. はしか除けの浮世絵が大流行

はしか除けの浮世絵が大流行のイラスト

1862年(文久2年)、日本各地で麻疹が大流行しました。今のような薬がない時代で、人々は病気を避けたり軽くしたりする方法を必死に求めます。

そこで次々に売り出されたのが、はしか絵と呼ばれる浮世絵です。食べてよい物と悪い物や、病気除けのまじないなどが描かれ、約100点も出版されました。

※麻疹(ましん)は「はしか」のことです。

出典:東京新聞(2020年)

11. 空からお札が降ってきた

空からお札が降ってきたのイラスト

1867年(慶応3年)の夏、三河国の牟呂村で、伊勢神宮などのお札が降ってきたとして村中がお祭り騒ぎになりました。これがええじゃないかの始まりのひとつとされます。

人々は「ええじゃないか」とはやして踊り歩き、騒ぎは東海道を通って各地へ広がりました。倒幕派が混乱をねらって仕掛けたという説もありますが、はっきりしません。

※三河国(みかわのくに)牟呂村(むろむら)は、今の愛知県豊橋市です。

出典:豊橋市/静岡県立中央図書館

12. 戊辰戦争の名は干支から

戊辰戦争の名は干支からのイラスト

1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで始まった新政府軍と旧幕府軍の戦いは、戊辰戦争と呼ばれます。この名前は、その年の干支が戊辰だったことに由来するものです。

戦いの舞台は東北や北海道へ移り、翌年の箱館戦争まで約1年半続きました。干支で出来事を呼ぶのは珍しくなく、古代の壬申の乱も同じ付け方です。

※戊辰(ぼしん)は「つちのえたつ」とも読みます。干支(えと)は、十干と十二支を組み合わせて年などを表す数え方です。

※壬申の乱は「じんしんのらん」と読みます。

まとめ

幕末は、黒船の来航をきっかけに日本が大きく揺れ動いた時代でした。開国すると小判が海外へ流れ出し、物価が上がって人々の暮らしにも影響が出ています。

外国を追い払おうとした長州や薩摩は、外国と戦ったあとで、逆に西洋から学ぶ道を選びました。大政奉還も、慶喜にとっては政権を完全に手放すためのものではなかったと見られています。

一方で庶民は、コレラやはしかの流行に苦しみながら、ええじゃないかの踊りで時代の変わり目を迎えました。教科書に載る大きな出来事の裏にある、人々の動きにも目を向けてみてください。

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更新日:2026年9月30日(水) 04:11

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