徐福の雑学11選!不老の薬の正体は江戸時代の輸入品

不老不死の薬を探しに海へ出たまま、帰ってこなかった男がいます。始皇帝の命を受けた徐福です。『史記』には「王となって戻らなかった」とあるだけで、行き先は書かれていません。

それなのに日本には、佐賀や和歌山、富士山のふもとなど、徐福がやって来たという伝説が各地に残り、墓まであります。中国でも、故郷や船出の地をめぐって複数の土地が名乗りを上げてきました。

そんな徐福にまつわる雑学を11個ご紹介します。

史記と中国に残る徐福の足跡

まずは中国側の記録から見ていきます。『史記』の記述と、いまも続く「徐福の地」をめぐる話です。

1. 史記の中で人数が食い違う

史記の中で人数が食い違うのイラスト

始皇帝が徐福に託した若者の数は、同じ『史記』の中でも書き方が違います。前219年の出来事を記した本紀は「数千人」、列伝は「3000人」です。

列伝の話は、淮南王に謀反を勧めた伍被が「徐福が始皇帝をだました例」として語ったもの。徐福は海の大神に会ったものの、秦王の礼が薄いと言われて薬をもらえなかったと報告します。

良家の若い男女と職人を差し出せば手に入ると聞いた始皇帝は喜び、五穀の種も持たせて送り出しました。

※本紀では「徐巿(じょふつ)」、列伝では「徐福」と、名前の表記も違います
※「淮南王(わいなんおう)」は漢の地方の王、「伍被(ごひ)」はその家臣です

2. 巨大魚のせいにした言い訳

巨大魚のせいにした言い訳のイラスト

何年たっても薬を持ち帰れない方士の徐巿らは、叱られるのを恐れて「大鮫魚に邪魔されて蓬莱に着けない」と言い訳しました。弓の名手を同行させてほしいとも願い出ています。

すると始皇帝は自ら連弩を構えて大魚を待ち、之罘で巨魚を1匹射殺しました。ところが始皇帝は前210年のうちに、巡行の途中で亡くなっています。

※「方士(ほうし)」は不老不死の術を説いた人たち、「連弩(れんど)」は矢を続けて放てる弓です
※「大鮫魚」はサメとも読めますが、射殺された巨魚の正体はわかっていません

3. 王となって帰らなかった

王となって帰らなかったのイラスト

列伝には、徐福は「平原広沢」を得てそこで王となり、戻らなかったと書かれています。広い平野と沼地のある土地を手に入れた、という意味です。

ただ『史記』はその場所がどこかを記しておらず、「日本」という言葉も出てきません。この土地を日本とする伝説は、後の時代になって生まれたものです。

4. 故郷も出航地も取り合い

故郷も出航地も取り合いのイラスト

1982年、江蘇省贛楡県の徐阜村は、かつて「徐福村」と呼ばれていたとわかったとされます。きっかけは地名の調査で、地元では明や清の時代にそう呼ばれていたと説明しています。

ただ故郷には山東省龍口とする説もあり、出航地も秦皇島・慈渓・琅琊などで割れています。2007年に贛楡で開かれた第7回徐福節の開幕式には、羽田孜元首相も出席しました。日本人観光客を呼ぶ村おこしではないか、という指摘もあります。

※「贛楡(かんゆ)」は現在の連雲港市贛楡区、「琅琊(ろうや)」は山東省の古い地名です
※明や清の時代に「徐福村」と呼ばれていたというのは、地元の主張です

5. 焚書を逃れた書物の詩

焚書を逃れた書物の詩のイラスト

北宋の欧陽脩の作とされる「日本刀歌」には、徐福が旅立ったのは焚書の前だったので、失われた書物100篇が今も日本に残る、という一節があります。

中国で消えた古典が海の向こうで生き延びた、という空想です。これはあくまで詩の中の話で、実際にそうした書物が見つかったわけではありません。

※「焚書(ふんしょ)」は始皇帝が書物を焼かせたこと、「欧陽脩(おうようしゅう)」は北宋の文人です
※この詩は司馬光の作とする説もあります

日本各地に根づいた徐福伝説

ここからは日本の話です。九州から紀伊半島、富士山のふもとまで、徐福の伝説は各地に残されています。

6. 富士山こそ蓬莱という説

富士山こそ蓬莱という説のイラスト

10世紀半ばの中国の本『義楚六帖』には、徐福が日本に渡り、富士山を蓬莱として住み着いたとあります。日本の僧・弘順から聞いた話として載せたものです。

連れて行った人数は童男童女各500人とされ、『史記』の数千人や3000人とも合いません。蓬莱は、徐福が始皇帝に「海の中に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山がある」と申し出た山のひとつで、仙人の住む山として知られ、『竹取物語』の「蓬莱の玉の枝」にも登場します。

※「義楚六帖(ぎそろくじょう)」「弘順(こうじゅん)」「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「瀛洲(えいしゅう)」と読みます

7. 佐賀に残る上陸の伝説

佐賀に残る上陸の伝説のイラスト

佐賀市諸富町の「浮盃」は、徐福が上陸した地と伝えられています。盃を浮かべて上陸地を決めたのが地名の由来とされ、船団の約8割が有明海に着いたという言い伝えもあります。

上陸した徐福は金立山で霊薬を探し、「フロフキ」という草を見つけたとか。正体はカンアオイで、名は「不老不死」がなまった説と「黒蕗」から来た説に分かれます。金立山の中腹にある金立神社上宮では、徐福が祭神の一柱として祀られています。

※「浮盃(ぶばい)」「金立山(きんりゅうさん)」と読みます

8. 富士吉田で機織りを伝えた

富士吉田で機織りを伝えたのイラスト

山梨県富士吉田市には、富士山のふもとに住み着いた徐福が、村人に養蚕と機織りを教えたという伝承があります。織物の町・富士吉田では、これが機織りの始まりとして語られてきました。

死後の徐福は鶴に姿を変えたとも言われ、市内の福源寺には「鶴塚」があり、鶴になった徐福が舞い降りた場所とされています。

※機織りの始まりとする根拠は、地元の伝承だけです

9. 墓碑が建ったのは約100年後

墓碑が建ったのは約100年後のイラスト

和歌山県新宮市にある「徐福の墓」の墓碑は、紀州藩の初代藩主・徳川頼宣が、儒学者の李梅渓に文字を書かせたものです。

ところが頼宣も李梅渓も17世紀のうちに世を去り、墓碑が実際に建ったのは1736年(元文元年)で、文字が書かれてから約100年後のことでした。周りには北斗七星の形に並ぶ七塚もあります。

※「藩」は大名が治めた領地、「儒学者」は孔子の教えを研究する学者です
※「李梅渓(りばいけい)」と読みます

10. 不老の薬は江戸時代の輸入品

不老の薬は江戸時代の輸入品のイラスト

新宮には、徐福が探し当てた不老不死の霊薬は「天台烏薬」だったという伝承がありますが、今は新宮市の木で薬効があるとされています。

ところが『本草綱目啓蒙』によると、この木は享保年間に薬用として中国から入ってきたものなので、墓碑が建ったのとほぼ同じ頃で、伝説と記録が食い違っているのです。

※「天台烏薬(てんだいうやく)」と読みます
※『本草綱目啓蒙』は江戸時代の植物や薬の解説書で、享保年間は18世紀前半です

11. 波田須で出た秦の古銭

波田須で出た秦の古銭のイラスト

三重県熊野市波田須の徐福の宮の周りでは、秦の半両銭が見つかっています。出土は1960年代から1970年ごろで、当初は7〜8枚あったとも聞きます。

のちに中国の学者が秦代のものと鑑定したものの、その頃に5〜6枚が行方不明となり、残るのは2枚です。後から持ち込まれた可能性もあり、徐福が来た証拠にはなっていません。

※「波田須(はだす)」「半両銭(はんりょうせん)」と読みます

まとめ

徐福について確かな記録といえるのは、『史記』のわずかな記述だけです。その『史記』でさえ人数は数千人と3000人に分かれ、行き先も「平原広沢」としか書かれていません。

日本との結びつきは10世紀の中国の本にもう見られ、そこでは富士山が蓬莱とされていました。新宮の墓碑は頼宣が書かせてから約100年後に建ち、不老の薬とされる天台烏薬も江戸時代に入ってきた木です。

記録が少ないぶん、各地がそれぞれの物語を重ねてきたのでしょう。伝説がどう育ってきたかをたどると、徐福の姿もまた違って見えてきます。

あわせて読みたい

更新日:2026年10月13日(火) 04:16

コメントを入力

TOP