10月14日の「鉄道の日」は、なぜこの日なのでしょうか。実は日本初の鉄道の開業式は旧暦の9月12日に行われ、それを新暦に直した日付が10月14日なのです。しかもその式は、もとは別の日に予定されていました。
幕末にはペリーが蒸気機関車の模型を持ってきていましたが、本物の鉄道が走ったのは明治に入ってから。開業式の列車の顔ぶれや運賃、海の上の線路など、明治の鉄道には意外な話が詰まっています。
そんな鉄道開業にまつわる雑学を11個ご紹介します。
開業の日をめぐる舞台裏
まずは開業式の当日と、その前後に起きた出来事から見ていきましょう。
1. 暴風雨で延びた開業式と鉄道の日

開業式は良い日を選び、明治5年9月9日の重陽の節句に予定されていました。しかし暴風雨のため、9月12日に延期されます。毛利元徳の日記にも、前日の晩に延期の連絡が来たとあります。
9月12日は旧暦で、新暦に直すと10月14日。予定どおりなら鉄道の日は10月11日だったかもしれません。開業の約3か月後には改暦があり、新暦に切り替わりました。
1922年に鉄道省が「鉄道記念日」を定め、1994年に運輸省が「鉄道の日」と改めました。
※毛利元徳(もうりもとのり)は、長州藩の最後の藩主です。
出典:国立公文書館/東京都公文書館
2. お召し列車は明治のオールスター

開業式の列車は10両編成とされ、明治天皇は前から3両目に乗りました。乗った人として、西郷隆盛・大隈重信・勝海舟・渋沢栄一らの名が残ります。
西郷は、鉄道より軍備を整えることを優先すべきと主張した一人とされます。その西郷も、開業式の列車に乗っていました。
列車は10時に新橋を出て、11時に横浜へ到着。日比谷では祝砲が101発撃たれています。当日は旅客の営業がなく、一般の乗客を乗せたのは翌日からでした。
※開業式の会場だった初代新橋駅は、今の新橋駅ではなく汐留にありました。
出典:東京都公文書館/国立公文書館
3. 日本初の鉄道運賃は今のいくら?

新橋〜横浜間の運賃は、上等が1円12銭5厘、中等が75銭。下等は37銭5厘でした。列車は1日9往復。途中駅での停車を含め、約29kmを53分で結びました。
米の値段で比べると、下等でも約4000〜5000円。上等なら約1万2000〜1万5000円です。
実は本開業の約4か月前、品川〜横浜間で仮開業しており、当初は下等でも50銭。区間が短いのに、本開業より高かったのです。その後の値下げで、週の乗客は約4000人から1万5000人ほどに増えています。
※上等・中等・下等は、今でいう座席のクラスです。今の金額への換算は目安です。
出典:東京都公文書館/港区
線路が敷かれるまでの苦労
新橋〜横浜間に線路が敷かれるまでには、さまざまな事情や工夫がありました。
4. なぜ新橋〜横浜間が最初だった?

1869年(明治2年)、外務省が東京〜横浜間の鉄道を建議しました。土地が平らで川も少なく、最初の事業として成功しやすいというのが理由の一つです。東京〜大阪のような遠い路線の「見本」にする狙いも込められていました。
横浜の商人からの出資も見込んでおり、開港場の横浜と首都を結ぶ実利もありました。
建設資金は、1870年(明治3年)にロンドンで発行した100万ポンドの公債で、日本初の外債で政府の信用がまだ低く、年利9%と高い利率でした。
※建議(けんぎ)は政府への提案、外債(がいさい)は外国で借りたお金のことです。
出典:国立公文書館/nippon.com
5. 線路は海の上を走っていた

田町付近から品川付近までの約2.7kmは、海の上に築いた堤の上を線路が通っていました。東海道沿いに兵部省の軍用地などがあり、軍事上の理由で用地を渡してもらえなかったためです。
2019年に品川駅の工事中に石垣が見つかりました。翌年の調査で「高輪築堤」の跡と確認されています。
※兵部省(ひょうぶしょう)は、明治のはじめに軍事を担当した役所です。
※高輪築堤は「たかなわちくてい」と読みます。
出典:文化庁/港区
6. 線路幅は「安い方で」決まった?

日本の在来線の線路幅は1067mm。イギリス人技師に幅を聞かれた大隈重信は、意味がよく分からないまま「安い方でよい」と答えたと伝わります。
ただ、技師の勧めに従ったと大隈が述べていたという話もあります。狭い線路幅は急なカーブに強く、建設費も安いため、山の多い日本に合う面もありました。
7. 開業を待たずに逝った英国人技師

鉄道建設の指揮をとったのは、イギリス人技師のエドモンド・モレルです。日本の木材を枕木に使うよう進言し、日本人技術者を育てる仕組みも提案しました。
しかし1871年、肺の持病が悪化し、開業を見ずに30歳前後で亡くなります。妻も半日ほど後に息を引き取りました。夫妻の墓は、横浜外国人墓地にあります。
明治の汽車にまつわるこぼれ話
最後は、走り始めたばかりの汽車をめぐる少し変わった話です。
8. 明治5年に作られた乗車ルール

開業前の1872年(明治5年)に「鉄道略則」が定められ、先に運賃を払って切符を受け取ることや、走る汽車からの乗り降りの禁止が決まりました。当時から婦人用の車両があり、男性の立ち入りも禁止でした。
時刻表と運賃表の但し書きには、発車10分前までに駅へ来ることも書かれていました。犬は1匹25銭で、客車には乗せられなかったのです。
出典:国立公文書館/東京都公文書館
9. トイレのない汽車と2つの罰金

開業当初の客車には、トイレがありませんでした。
1873年(明治6年)には、我慢できなくなった男性客が汽車の窓から用を足して、罰金10円を科されたという記録が紹介されています。
さらに1881年(明治14年)の新聞には、長崎県の士族が汽車の窓からお尻を出しておならをしたと報じられた記録もあります。車内でするのは申し訳ないと考えての行動でしたが、罰金5円をとられたそうです。
開業時の下等運賃は37銭5厘でしたから、どちらも運賃の10倍を超える金額です。
※士族(しぞく)は、もと武士の家の人のことです。
※どちらの話も、もとの新聞記事は確認されていません。
10. 地方の私鉄に売られた1号機関車

開業時に輸入された蒸気機関車10両は、すべてイギリス製で1号機関車もイギリスで造られた1両です。
その1号機関車は1911年に、長崎県の島原鉄道へ売られました。国の鉄道に戻ったのは1930年のこと。戻るとき、島原鉄道側は「惜別感無量」と刻んだ銘板をつけました。のちに国の重要文化財にも指定されています。
※惜別感無量(せきべつかんむりょう)は、別れがとても惜しいという意味です。
11. 日本人だけで掘ったトンネル

京都と大津の間にある逢坂山トンネルは、全長約664mの日本人技術者だけで造った初めてのトンネルでした。完成は1880年(明治13年)で、工事には1年8か月かかりました。
外国人技師は、日本人だけでは無理だと見ていましたが、それでも井上勝は日本人による工事を押し進め、生野銀山から腕のいい坑夫を集めたのです。
※逢坂山は「おうさかやま」と読みます。
※生野銀山(いくのぎんざん)は、兵庫県にあった鉱山です。
出典:JR西日本
まとめ
鉄道の日が10月14日なのは、旧暦の明治5年9月12日に行われた開業式の日付を、新暦に直したためでした。もとは重陽の節句に予定されていたものの、暴風雨で延期されたという裏話もあります。
線路は軍用地を通れずに海の上を走り、建設資金は外国で借りたお金でまかなわれました。開業を見られなかったモレルや、日本人だけでトンネルを掘った技術者たちなど、多くの人の力が明治の鉄道を支えていたのです。
10月14日に電車に乗るときは、明治の開業の日を少し思い出してみてはいかがでしょうか。
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更新日:2026年10月11日(日) 09:38

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