本多忠勝の雑学12選!子孫に楽天の三木谷浩史さん

生涯で57回も戦場に立ちながら、かすり傷ひとつ負わなかった。そんな伝説を持つのが、徳川家康に仕えた武将・本多忠勝です。しかも初めての傷は、戦ではなく小刀で名前を彫っていたときのものだったといいます。

忠勝は1548年(天文17年)に三河で生まれ、徳川四天王のひとりとして家康を支えました。名槍「蜻蛉切」を手に数々の戦で活躍し、晩年は桑名の町づくりにも力を注いでいます。

そんな本多忠勝にまつわる雑学を12個ご紹介します。

無傷の伝説と愛用の武具

まずは、忠勝の代名詞ともいえる「無傷」の伝説から。戦場で身に着けた槍や兜にも、意外な話が隠れています。

1. 57回の合戦で傷ひとつなし

57回の合戦で傷ひとつなし

本多忠勝は生涯で57回の合戦に出ながら、かすり傷ひとつ負わなかったと伝わります。初陣は1560年(永禄3年)、数えで13歳のときの大高城への兵糧入れでした。

なぜ無傷だったのか、はっきりした理由は分かっていません。軽い鎧で素早く動き、長い槍で敵を寄せつけなかったことが一因だったのかもしれません。

※「兵糧(ひょうろう)入れ」は、敵に囲まれた味方の城へ食料を運び込む役目のことです

2. 最初の傷は名前を彫るとき

最初の傷は名前を彫るとき

晩年の忠勝が小刀で持ち物に名前を彫っていたところ、手元が狂って手に小さな傷を負ったという逸話があり、これが生涯で初めての傷で、「忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやいたとも言います。

とはいえ、この傷がもとで亡くなったわけではありません。晩年は病気がちで目も患っており、1610年(慶長15年)に63歳で世を去りました。

※63歳は数え年での年齢です

3. 「蜻蛉切」という名前の由来

「蜻蛉切」という名前の由来

忠勝が愛用した槍「蜻蛉切」は、穂先に止まったトンボがそのまま真っ二つになったことから名付けられたといいます。それほど刃が鋭かったというわけです。

作ったのは三河の刀工・藤原正真とされ、「天下三名槍」と呼ばれる3本の名槍のひとつにも数えられる名品です。

※「蜻蛉切(とんぼきり)」の名の由来には、ほかの説もあります

4. 蜻蛉切の長さは約6m

蜻蛉切の長さは約6m

蜻蛉切の刃の長さは約44cmで、持ち手の柄は約6mもあったといわれます。晩年の忠勝はこの柄を約90cm切り詰めたとされ、年齢に合わせて扱いやすくしたのでしょう。

蜻蛉切は今も残っており、個人の持ち物として静岡県三島市の佐野美術館に預けられています。

5. 鹿の角の兜は紙でできていた

鹿の角の兜は紙でできていた

忠勝のトレードマークといえば、左右に大きな鹿の角が付いた兜です。この角は本物ではなく、和紙を何枚も貼り重ねて黒い漆で固めたものでした。

見た目は派手でも重さはさほどなく、鎧も軽いものを好み動きやすさを重んじた忠勝らしい工夫です。

※この鹿の角は「脇立(わきだて)」と呼ばれる、兜の左右に付ける飾りの一種です

家康を支えた戦場の逸話

続いては、主君・家康のそばで忠勝が見せた活躍の数々です。敵である武田方や秀吉からも、その強さは認められていました。

6. 敵が歌にした忠勝の強さ

敵が歌にした忠勝の強さ

1572年(元亀3年)の一言坂の戦いで、忠勝は退く徳川軍の最後尾に残り、武田軍を食い止めました。その働きから「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という歌が詠まれたといいます。

家康には不釣り合いなほど立派なもの、という意味で、作者ははっきりしませんが武田方から出たと伝わり、家康自身の言葉ではありません。

※「唐の頭(からのかしら)」はヤクの毛で飾った兜、「本多平八」は忠勝のことです

7. 大軍の前で馬に水を飲ませる

大軍の前で馬に水を飲ませる

1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで、忠勝は数百の兵で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、一騎で龍泉寺川に入って悠々と馬に水を飲ませました。

その度胸に感心した秀吉は、忠勝を「東国一の勇士」とほめたという話が残ります。のちに秀吉から自分と家康のどちらの恩が重いかと問われ、迷わず家康と答えたとも伝わります。

※兵の数ははっきりとはしていませんが、300とも500とも言われています。

8. 宗派を変えてまで家康の側へ

宗派を変えてまで家康の側へ

1563年(永禄6年)、三河で一向一揆が起こります。浄土真宗の信者たちが家康に反乱を起こしたもので、本多一族の多くも一揆側につきました。

数えで16歳の忠勝も浄土真宗の家に生まれましたが、浄土宗へ宗派を変えて家康のもとに残ります。信仰より主君を選んだ、若き日の決断でした。

9. 渡った船の底を槍で突き破る

渡った船の底を槍で突き破る

1582年(天正10年)の本能寺の変のあと、堺にいた家康は伊賀の山道を越えて三河へ逃げ帰りました。この「伊賀越え」に忠勝も付き従っています。

途中で木津川を渡り終えると、忠勝は乗ってきた船の底を槍の石突で突き破ったと伝わります。追っ手に船を使わせないためでした。

※「石突(いしづき)」は、槍の柄の刃とは反対側の端のことです

素顔と今に残る足あと

最後は、忠勝の人柄がうかがえる話と、晩年から現代へつながる話を見ていきましょう。

10. 本多正信を「腰抜け」と呼ぶ

本多正信を「腰抜け」と呼ぶ

家康の側近で知恵者として知られた本多正信を、忠勝は嫌っていました。同じ本多姓ですが、血筋はかなり遠い間柄です。

戦場で槍を振るう忠勝の目には、知恵や策略で家康を支える正信が好ましく映らなかったのでしょう。「佐渡守の腰抜け」とののしった、と記す書物もあります。

※「佐渡守(さどのかみ)」は正信の役職名で、ここでは正信を指します

11. 桑名の町の土台をつくった

桑名の町の土台をつくった

1601年(慶長6年)、忠勝は上総の大多喜から伊勢の桑名へ移り、10万石の領地を治めました。桑名城を築き、「慶長の町割」と呼ばれる町の区画整理も進めています。

町を流れる町屋川は流れを付け替え、東海道の宿場や港も整えました。こうして桑名は城下町と港町、宿場町の顔をあわせ持つようになり、今の町並みの土台となりました。

※「石高(こくだか)」は、米の取れ高で表した領地の大きさのことです

※大多喜は今の千葉県、桑名は今の三重県にあたります

12. 子孫に楽天の三木谷浩史さん

子孫に楽天の三木谷浩史さん

忠勝の血筋は今も続いており、楽天グループの創業者・三木谷浩史さんもそのひとりです。2018年放送のNHK「ファミリーヒストリー」で、父方の祖母が忠勝の子孫だと紹介されました。

忠勝の墓は、最後の領地となった三重県桑名市の浄土寺にあります。桑名市では今も、町の土台を築いた初代藩主として親しまれています。

まとめ

本多忠勝は57回の合戦で無傷だったと伝わる猛将で、初めての傷は小刀で名前を彫っていたときのものだったという逸話まで残っています。愛用の槍「蜻蛉切」は今も残り、刃の長さは約44cmです。

戦場では一言坂や小牧・長久手で敵をうならせました。その一方で、一族の多くと敵味方に分かれても、宗派を変えてまで家康のそばに残っています。

晩年は桑名の町づくりに取り組み、その血筋は楽天の三木谷浩史さんにまでつながっているのです。強さだけでなく、主君への一途な思いも忠勝の魅力と言えるでしょう。

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更新日:2026年9月26日(土) 09:41

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