徳川家康の雑学12選!しかみ像を描かせた記録は未発見

徳川家康は、戦国の世を生き抜いて江戸幕府を開き、260年余り続く泰平の世の土台を築いた天下人です。幼いころは長く人質として過ごし、三方ヶ原の戦いでは武田軍に大敗する苦い経験もしました。

天下を取ってからも、食事や運動に気を配り、自分で薬を調合するほどの健康好きでした。スペイン国王から贈られた西洋の時計や、外国から来た家臣にも、強い関心を寄せています。

そんな徳川家康にまつわる雑学を12個ご紹介します。

若き日の苦労と数々の俗説

まずは、人質時代から三方ヶ原の戦い、妻子をめぐる事件まで、若き家康の歩みと後世に広まった話を見ていきましょう。

1. 人質は売られたとは限らない

人質は売られたとは限らない

家康は幼いころ、長く人質として過ごしました。今川家へ向かう途中で戸田康光に奪われ、織田家へ売られたというのが通説です。

一方、2015年に村岡幹生氏は、父の松平広忠が織田信秀に降伏し、家康を人質に差し出したとする説を示しました。忍耐の人を表す「鳴かぬなら鳴くまで待とう」の句も、本人の言葉ではありません。

※この句は後世のもので、江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』に載っています。

2. 4つの名を名乗った若き日

4つの名を名乗った若き日

幼名は竹千代で、1555年(弘治元年)に元服して元信と名乗りました。「元」の字は、今川義元から1字をもらったものです。その後、名を元康に改めています。

1563年(永禄6年)には「元」を捨てて家康となり、今川家と決別する姿勢を示しました。さらに1566年(永禄9年)、名字も松平から徳川へ変更しました。

3. しかみ像と三方ヶ原の関係

しかみ像と三方ヶ原の関係

三方ヶ原の大敗を戒めるため、家康が描かせたとされるのが「しかみ像」です。しかし徳川美術館の原史彦氏の研究では、そうした記録は見当たらないとされました。

この絵は1780年(安永9年)、紀州徳川家の姫が尾張徳川家へ嫁ぐときに持参した品です。戒めの絵という話は、1936年の新聞報道などで広まった可能性が指摘されています。

※正式名は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」で、徳川美術館が所蔵しています。

4. 三方ヶ原でもらした伝説

三方ヶ原でもらした伝説

1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いで、家康は武田信玄の軍に大敗しました。逃げる途中、馬上で脱糞してしまったという話があります。

汚れを指摘された家康は「これは焼き味噌だ」と言い訳したそうです。ただ、出どころは江戸時代の軍記など後世の書物で、信憑性の低い俗説です。

5. 妻子の死は信長の命令か

妻子の死は信長の命令か

1579年(天正7年)、家康の正室・築山殿が殺され、長男の信康も切腹しました。通説では、織田信長の命令に家康が従ったとされています。

近年は、平山優氏らによって家康自身の判断とみる説が有力になりました。背景には、武田方との内通の疑いや家中の対立があったと考えられます。ただ、決着はまだついていません。

健康マニアだった家康の素顔

続いては、体格や食事、運動、薬づくりなど、健康に気を配った家康の暮らしぶりを紹介します。

6. 身長は約159cmと推定

身長は約159cmと推定

家康の身長は、約159cmだったと推定されています。根拠となっているのは、愛知県岡崎市の大樹寺に伝わる位牌です。

大樹寺には歴代将軍の位牌が並び、それぞれ将軍の身長と同じ高さで作られたという言い伝えがあります。晩年の家康は、太っていたとも伝わります。

7. 麦飯と鷹狩りで体づくり

麦飯と鷹狩りで体づくり

家康は普段から麦飯を食べていました。家臣が気を利かせて麦飯の下に白米を隠して出したところ、家康は怒ったという逸話があります。

鷹狩りは生涯で1000回以上に及んだとされます。『徳川実紀』には、遊びのためだけでなく筋骨を動かす運動だという趣旨の記述が見られます。享年は75歳で、当時としては長生きでした。

※享年は数え年で、満年齢では73歳です。

8. 薬を止めた侍医を流罪に

薬を止めた侍医を流罪に

家康は中国の薬学書を読み、薬研を使って自分で薬を調合していました。自家製の万病円も飲んでいたようです。

侍医の片山宗哲が「強い薬はかえって悪い」と止めたところ、怒った家康は1616年(元和2年)、宗哲を信濃の高島へ流しました。宗哲が許されたのは、1618年のことです。

※薬研は、薬の材料をすりつぶす舟形の道具です。

9. 死因は鯛の天ぷらではない

死因は鯛の天ぷらではない

『徳川実紀』によると、家康は1616年(元和2年)1月21日、駿河の田中で鯛の天ぷらを食べたあとに体調を崩しました。亡くなったのは4月17日で、3ヶ月近く後のことです。

一時は回復したものの再び悪化し、痩せや腹のしこり、吐血などの記録が残っています。こうした症状から、現在は胃がんとする説が有力です。

※遺体を調べたわけではないため、胃がんも推定にとどまります。

新しもの好きの天下人と最期

最後は、海外から届いた品や外国人の家臣との関わり、そして家康が遺した最期の言葉を取り上げます。

10. 西洋の時計と最古の鉛筆

西洋の時計と最古の鉛筆

1611年(慶長16年)、家康はスペイン国王フェリペ3世から時計を贈られました。1609年にスペイン船の遭難者を救ったお礼で、1581年にマドリードでハンス・デ・エバロが作ったものです。

国内に現存する最古のゼンマイ式時計で、重要文化財です。家康が所持していた鉛筆も、日本最古とされる重要文化財として久能山東照宮に残ります。

11. 青い目の侍・三浦按針

青い目の侍・三浦按針

1600年(慶長5年)、リーフデ号で臼杵に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムスは、家康に幾何学や数学、航海術を教えました。

伊東では洋式帆船を造り、1604年に80トン、1607年に120トンの船を完成させています。250石の旗本として相模国逸見に領地を与えられ、自身も朱印状を得て航海しました。

※三浦按針は、日本で名乗った名前です。

12. 墓は日光ではなく久能山

墓は日光ではなく久能山

家康の墓といえば、日光東照宮を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし『本光国師日記』に記された遺言では、遺体は久能山に納めるよう命じていました。

葬儀は増上寺、位牌は大樹寺とし、一周忌の後に日光へ小さな堂を建てて祀るよう言い残しています。遺骸が実際に日光へ移されたかどうかは、説が分かれるところです。

※『本光国師日記』は、家康に仕えた僧・金地院崇伝の日記です。

まとめ

徳川家康には、後世に広まった話が数多くあります。人質として売られたという通説には父が差し出したとする新説が出ており、しかみ像も、三方ヶ原の戒めとして家康が描かせた記録は見つかっていません。

晩年の家康は、麦飯や鷹狩りで日ごろから体を整え、自ら調合した薬をめぐって侍医を流罪にするほどの健康好きでした。死因も鯛の天ぷらではなく、胃がんとする説が有力になっています。

遺言で遺体を駿河の久能山に納めるよう命じていたことも含め、よく知られたイメージとは少し違う家康の姿が見えてきます。

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更新日:2026年9月27日(日) 11:31

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