ジョン万次郎の雑学12選!英語ができすぎてスパイを疑われた

「ジョン万次郎」という名前は、実は本人が生きていたころには使われていませんでした。土佐の漁師の子だった万次郎は、少年のころに漂流して無人島にたどり着き、アメリカの捕鯨船に助けられた人物です。

アメリカで英語や航海術を学んで帰国すると、通訳や英語・航海術の教師として幕末の日本を支えました。明治に入ってからは、開成学校の英語教授も務めています。そんなジョン万次郎にまつわる雑学を12個ご紹介します。

無人島からアメリカへ渡った少年

少年のころに漂流した万次郎は、思いがけない形でアメリカへ渡ることになります。まずは漂流から、アメリカで学んだ日々までの話です。

1. 無人島で143日を生き延びた

無人島で143日を生き延びたのイラスト

1841年(天保12年)、土佐の宇佐浦から5人で漁に出た船が遭難しました。万次郎は数えで14歳の最年少で、炊事などの下働きを受け持っていました。

船は約750kmも流され、5人は無人島の鳥島にたどり着きます。そこで143日を生き延びたのち、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されました。

※土佐は今の高知県、宇佐浦は「うさうら」と読みます。

※数えは、生まれた年を1歳とする年齢の数え方です。

2. 仲間と別れ1人だけアメリカへ

仲間と別れ1人だけアメリカへのイラスト

仲間の4人は、ハワイのホノルルで船を降りました。しかし万次郎だけはホイットフィールド船長に見込まれ、船に残ります。

1843年、フェアヘーブンに着いた万次郎は、船長の家で家族同然に暮らしました。年下の子たちとABCから英語を学び、のちにバートレット・アカデミーで数学や航海術を身につけています。

※フェアヘーブンは、アメリカ東部のマサチューセッツ州にある港町です。

3. ジョン万次郎の本名は?

ジョン万次郎の本名はのイラスト

ジョン万次郎の本名は、中浜万次郎です。アメリカでは船の名前にちなんで「ジョン・マン(John Mung)」と呼ばれました。

「ジョン万次郎」の呼び名を広めたのは、井伏鱒二の小説『ジョン萬次郎漂流記』です。1938年に直木賞を受けたこの作品が初出ともいわれ、本人が生前に使っていた名前ではありません。

※井伏鱒二は「いぶせますじ」と読みます。

4. 差別した教会を一家で去った

差別した教会を一家で去ったのイラスト

アメリカでは、差別に出会うこともありました。船長一家が通う組合派の教会で、万次郎を黒人用の席に座らせるよう言われたのです。

ホイットフィールド船長はこれに従わず、家族ごとユニテリアン教会へ移りました。万次郎を家族の一員として扱う、船長の姿勢がうかがえる出来事です。

※組合派とユニテリアンは、どちらもキリスト教の教派の名前です。

大金を稼いで命がけの帰国

アメリカで学んだ万次郎は、やがて日本へ帰る道を探し始めます。帰国の資金づくりから、故郷にたどり着くまでを見ていきましょう。

5. 金山で稼いだ捕鯨3年分以上

金山で稼いだ捕鯨3年分以上のイラスト

その後、万次郎は捕鯨船フランクリン号で3年余りの航海に出ました。一等航海士も務めましたが、稼ぎは370ドルでした。

帰国の資金をつくるため、次に向かったのはカリフォルニアの金山です。70日余りで600ドルほどを稼ぎ、捕鯨の稼ぎを大きく上回りました。本人の手紙では、経費を除いて1日平均8ドルだったといいます。

※一等航海士は、船長を補佐する副船長にあたる役目です。

6. 自前の小舟で琉球に上陸

自前の小舟で琉球に上陸のイラスト

日本へ帰るため、万次郎はホノルルで知り合いの牧師の助けを借り、小舟のアドベンチャー号を買いました。この小舟を上海行きの商船に積み込み、1850年に出航します。

1851年(嘉永4年)、万次郎は伝蔵・五右衛門と3人で小舟に乗り移り、琉球の摩文仁間切小渡浜に上陸しました。今の沖縄県糸満市にある大度浜海岸です。

※摩文仁間切小渡浜は「まぶにまぎりおどはま」、大度浜は「おおどはま」と読みます。

※アドベンチャー号は、英語ではAdventurerと書きます。

7. 母と過ごせたのはわずか3日

母と過ごせたのはわずか3日のイラスト

琉球に着いた万次郎たちは、そこで約半年留め置かれます。薩摩を経て長崎へ送られ、長崎奉行所の取り調べでは踏み絵もおこなわれました。

故郷の中浜に帰り着いたのは1852年(嘉永5年)。漂流から約11年10か月ぶりに、母との再会を果たしました。ただ本人の手紙によると、一緒にいられたのはわずか3日3晩だったそうです。

※薩摩は今の鹿児島県です。長崎奉行所は、長崎を治めた幕府の役所です。

※踏み絵は、キリスト教徒でないことを確かめるために、キリストなどの像を踏ませることです。

8. 漁師の子が1年で幕府の家来に

漁師の子が1年で幕府の家来にのイラスト

故郷に戻った1852年、万次郎は土佐藩の下級武士である徒士格に取り立てられ、藩校の教授館で教えました。後藤象二郎や岩崎弥太郎も、ここで学んだとされます。

1853年(嘉永6年)には幕府に召し抱えられ、将軍直属の家来である直参の普請役格となりました。出身地の中浜を姓とし、中浜万次郎と名乗るようになります。

※藩は大名が治めた領地、藩校は藩がつくった学校です。

※徒士格は「かちかく」、教授館は「こうじゅかん」、直参は「じきさん」、普請役格は「ふしんやくかく」と読みます。

幕府に頼られ疑われた英語力

帰国した万次郎の英語力と知識は、幕府にとっても貴重なものでした。ここでは、帰国後の活躍と苦労にまつわる話を集めました。

9. 英語ができすぎてスパイ疑惑

英語ができすぎてスパイ疑惑のイラスト

1853年にペリーが来航すると、幕府は万次郎を通訳に使おうとしました。これに待ったをかけたのが、徳川斉昭らです。

ほかに英語のわかる者がいないため、アメリカ寄りの通訳をされても見抜けないと懸念されたのです。こうして万次郎は通訳から外されました。スパイではないかと疑われたともいわれています。

※徳川斉昭は「とくがわなりあき」と読みます。

10. ジョン万次郎の英語の発音は?

ジョン万次郎の英語の発音はのイラスト

万次郎は、英語を耳で聞いた音のまま覚えました。それがよく表れているのが、1859年に刊行された英会話の本『英米対話捷径』です。

この本は英文とカタカナの発音、日本語訳を並べたつくりです。sickは「セッキ」、comingは「カメン」、bookは「ボック」と書かれています。

※英米対話捷径は「えいべいたいわしょうけい」と読みます。

11. 咸臨丸で水夫に脅された通訳

咸臨丸で水夫に脅された通訳のイラスト

1860年(安政7年)、万次郎は通訳として咸臨丸に乗りました。アメリカ寄りの通訳を疑う声もあり、乗船が決まったのは出発の約2週間前です。

荒天で日本人の多くが船酔いする中、万次郎ら3人は平気だったとされます。ブルック大尉の日記に、日本人水夫にマストへ登れと言った万次郎が「帆桁に吊るす」と脅されたとあります。

※咸臨丸は「かんりんまる」と読みます。通訳は、当時「通弁」と呼ばれていました。

※ブルック大尉は、咸臨丸に同乗したアメリカ海軍の軍人です。

※帆桁は「ほげた」と読み、帆を張るためにマストに渡した横木のことです。

12. 恩人との再会と盗まれた刀

恩人との再会と盗まれた刀のイラスト

1870年(明治3年)、普仏戦争の視察団に加わった万次郎は、帰りにアメリカへ回りました。フェアヘーブンでは、約20年ぶりに船長一家と再会しています。

1918年(大正7年)には、長男・中浜東一郎の名で14世紀の太刀がフェアヘーブン町へ贈られました。しかしこの刀はのちに盗まれて見つからず、代わりの刀が贈られています。

※普仏戦争は、フランスとプロイセン(今のドイツの一部)の戦争です。太刀は「たち」と読みます。

まとめ

ジョン万次郎は、漂流した無人島からアメリカの捕鯨船に助けられ、船長のもとで英語や航海術を学びました。金山で帰国の資金を稼ぎ、小舟で琉球に上陸して、約11年10か月ぶりに故郷へ戻っています。

帰国後は武士に取り立てられ、幕府の家来にまでなりました。その一方で、ペリー来航の際には、ほかに英語がわかる者がいないことを理由に通訳から外されています。頼られながら疑われる、難しい立場でもあったのです。

船長一家との縁は、のちの再会や長男の代の刀の贈り物にまで続きました。教科書の短い紹介だけでは見えない、周りの人とのつながりにも目を向けると、万次郎の印象が少し変わるかもしれません。

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更新日:2026年10月5日(月) 02:56

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