ヨハネス・グーテンベルクは、15世紀のドイツで活版印刷の仕組みを完成させた人物です。ところが本人については、生まれた年も、生きていたころの顔も、はっきりしたことが分かっていません。
残された記録の多くは訴訟や契約の書類です。巡礼みやげの鏡では在庫を抱え、婚約をめぐって訴えられ、聖書を刷り上げた頃には工房を手放していました。
そんなヨハネス・グーテンベルクにまつわる雑学を12個ご紹介します。
正体がよく分からない男
まずは、この人物について分かっていることの少なさから見ていきます。名前ほどには、素性が知られていません。
1. 生まれた年すら誰も知らない

ヨハネス・グーテンベルクは、誕生日どころか生まれた年もはっきりしておらず、史料から推定できるのは1393年から1406年のどこかという幅のある範囲だけです。
よく見かける1400年生まれという表記は、19世紀末に生誕500年を1900年に祝うため、関係者が象徴的に定めたものでした。
※誕生日を6月24日とする説もありますが、当時の名付けの習わしからの推定です。
2. 結局この人は何を発明したのか

活版印刷の発明者として知られますが、活字もプレス機も最初に作ったのは別の人でした。功績はすでにあった要素を本の量産という仕組みにまとめ上げた点にあります。
同じ形の活字を大量に複製する鋳造、鉛やスズの合金、油性のインキ、均一に圧をかけるプレス、この4つがそろって初めて印刷は商売になったのです。
※活字の鋳造では父型と母型を使う方式を完成させたとされますが、初期の活字については異なる見方も出ています。
3. 刷った本に名前を入れない

グーテンベルクは自分が刷った本に印刷者名も日付も入れていませんでした、グーテンベルク聖書(42行聖書)にも免罪符(贖宥状)にも作り手の名は見当たらないのです。
生涯をたどれる記録は、そのほとんどが訴訟や契約の公文書で、代表格は1455年の裁判を記した公証人文書でこれ自体が18世紀になって見つかりました。
4. 肖像画はすべて後世の想像

教科書などで見かける、長いひげをたくわえたグーテンベルクの姿ですが、あれは同時代に描かれたものではなく、実は生前の顔を写した絵は、1枚も残っていないのです。
現存する最も古い肖像は16世紀後半の木版画で、本人の死から100年ほど後のもので、それ以降に描かれた数々の肖像画も、いずれも画家が思い描いた想像上の姿です。
失敗と裁判だらけの人生
ここからは、事業と裁判に追われたグーテンベルクの日々をたどります。うまくいったことばかりではありませんでした。
5. 巡礼みやげの鏡で大コケ

印刷に取り組む前のグーテンベルクは、シュトラスブルクで出資者を集め金属の鏡を量産しました。アーヘンを訪れる巡礼者向けのみやげで、聖遺物の放つ光を映し取れるとされていました。
ところが目当ての巡礼が1年ずれ、鏡は売れずに在庫だけが残ります。出資者の一人が亡くなると、その遺族が訴えを起こします。
6. 婚約不履行の裁判で暴言

1436年頃にグーテンベルクはシュトラスブルクの名家の娘エンネリンから、婚約を果たさないとして訴えられています。これは私生活をうかがわせる数少ない記録の一つでした。
しかも、この裁判の場で相手方の証人を口汚く罵り、侮辱の罪に問われました。しかし、肝心の訴訟がどう決着したのかは、分かっていません。
7. 先に売れたのは免罪符だった

工房の印刷物で年代がはっきりしている最古のものは、聖書ではなく1454年の日付が入った免罪符で、1枚ものに31行を組んだ形式です。
オスマン帝国と戦うキプロスを支援するために刷られたもので、印刷はグーテンベルクの工房によるとされます。分厚い聖書より先に、1枚ものが商品として世に出ていたことになります。
8. 聖書完成と同時に工房を失う

事業の資金はヨハン・フストからの借入で賄われ、2回の貸付は利息付きで計1600グルデンにのぼりました。1455年、フストは利息を含めた返済を求めて訴えを起こします。
判決はフスト側に有利に働き、担保に入っていた印刷設備は手放さねばならず、聖書ができあがった時期に工房は手元を離れています。
※フストは弟子のペーター・シェッファーと組み、印刷業を続けました。
42行聖書がたどった道
最後は、代表作となった42行聖書のその後をたどります。刷られた本は、数百年をかけて世界に散りました。
9. なぜ42行聖書と呼ぶのか

42行聖書という呼び名は、2段に組まれた本文の1段が42行であることに由来しています。ただし、最初から42行だったわけではありません。
冒頭の数ページは40行で始まり、終盤にも40行の部分があります。間に41行のページが1つだけ挟まり、そこから42行に変わりました。行を詰めたのは、高価な紙を節約するためだったのかもしれません。
10. いくらで、日本にもあるのか

刊行当時の値段は約30フロリンで、手で書き写す仕事をしていた書記の3年分ほどの賃金にあたるとされます。
1987年10月、ニューヨークのクリスティーズで1冊が490万ドルで落札されました。手数料を含めると約539万ドルですが、落札したのは日本の丸善で、1996年に慶應義塾へ渡り今もアジアで唯一の所蔵先となっています。
※慶應義塾が所蔵するのは紙に刷られた上巻1冊です。購入額は公表されていません。
出典:UPI(1987年)/慶應義塾大学メディアセンター
11. バラされて1枚ずつ売られた

1921年に53葉が欠けた不完全な1冊が、古書商ガブリエル・ウェルズの手に渡りました。ウェルズはこれを解体して1葉ずつ解説の冊子を添えて売り出します。
傷のない1葉の値は150ドルで、そのぶん完全な1冊はいよいよ貴重になりました。現在まで伝わるのは48部から49部ほど、欠けのないものは21部とされます。
※売り出しは「A Noble Fragment(気高い断片)」と名付けられました。
12. 年金は現金ではなく穀物とワイン

1465年にマインツ大司教アドルフ・フォン・ナッサウがグーテンベルクを宮廷人に任じました。晩年にようやく訪れた厚遇です。
もっとも、与えられたのは現金ではなく、毎年の宮廷用の衣服一式に、穀物約2180リットル、ワイン約2000リットル、そして税の免除で老後を支えたのは現物と特権でした。
※グーテンベルクは1468年2月3日頃に亡くなったとされます。
まとめ
グーテンベルクの生まれた年は1400年頃としか言えず、同時代に描かれた肖像も残っていません。活字もプレス機も彼が最初ではなく、それらを本の量産という一つの仕組みにまとめ上げたところに功績があります。
生涯は訴訟と資金難の連続で、巡礼みやげの鏡は売れ残り、聖書が仕上がる頃には印刷設備を手放していました。それでも工房で身についた技術は職人たちとともに各地へ散り、本の値段と数を大きく変えていきます。1冊にも名前を残さなかった男の仕事だけが、今も世界の図書館に残されています。
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更新日:2026年9月19日(土) 10:40

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