平賀源内は、江戸時代の中ごろに活躍した讃岐(現在の香川県)出身の人物です。本草学者、発明家、戯作者、浄瑠璃作者と肩書きがいくつも並び、何をした人なのか一言では説明しにくい人でもあります。
エレキテルの人として名高いものの、それは発明ではなく壊れた輸入品の復元でした。燃えない布を織り、博覧会を開き、浄瑠璃を書き、鉱山に手を出しては失敗し、最後は牢の中で亡くなっています。
そんな平賀源内にまつわる雑学を12個ご紹介します。
讃岐の少年が江戸の学者に
まずは、源内が讃岐の小さな町から江戸へ出て、本草学者として名を知られるまでの話です。
1. 11歳で作ったからくり

平賀源内は1728年(享保13年)に讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市)で高松藩の蔵番の子として生まれました。11歳ごろ、酒を供えると天神像の顔が赤く変わる「お神酒天神」というからくり掛軸を作ったと伝わります。
掛軸は平賀源内記念館にあり、今も仕掛けを試せます。幼いころから人を驚かせる工夫を好んだようです。
※制作時の年齢は9歳、11歳、12歳など資料によって異なります。本名は国倫(くにとも)、号は鳩渓(きゅうけい)です。
2. 再就職の道を断たれる

1749年(寛延2年)に源内は父の死去で高松藩の蔵番を継ぎ、1760年(宝暦10年)には薬坊主格に進みました。しかし翌1761年(宝暦11年)には江戸へ出るため藩を辞めます。
このとき受けたのが「仕官御構い」という処分で、ほかの藩に仕える道が閉ざされ、以後は後ろ盾を持たない浪人として生きていくことになったのです。
※「仕官御構い(しかんおかまい)」は奉公構とも呼ばれ、他家への就職を禁じる処分です。
3. 日本で最初の博覧会

1757年(宝暦7年)、源内は師の田村藍水とともに江戸の本郷湯島で「薬品会」を開きました。これは日本で最初の物産会とされ、以後6年のあいだに5回開かれています。
1762年(宝暦12年)の第5回では、全国30余国から1300余点の動植物や鉱物が集まりました。薬の材料を輸入に頼らず国内で見つけ出すための催しでした。
※物産会は博覧会の先がけとされます。田村藍水(たむららんすい)は幕府に仕えた本草学者です。
4. 砂糖の作り方まで載せた本

1763年(宝暦13年)に源内は『物類品隲』全6巻を刊行します。薬品会に出品された2000余種から360種を選び、解説を添えたものです。
付録では朝鮮人参の栽培法と、サトウキビから砂糖を作る方法を図入りで紹介しました。輸入品を国産に切り替えるための実用書でもありました。
※『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』は本草学の書物です。珍しい32品には写生図が添えられ、掲載数を350種とする資料もあります。
出典:東京都立図書館(デジタルショーケース「物類品隲」解説)
エレキテルと鉱山の日々
ここからは、ものを作り、事業を起こそうとした源内の姿を見ていきます。うまくいったことも、そうでないこともありました。
5. エレキテルは復元だった

源内の代名詞ともいえるエレキテルは、源内が考え出した機械ではありません。1770年(明和7年)の2度目の長崎滞在で壊れた輸入品を手に入れて1776年(安永5年)11月に復元しました。
ハンドルを回してガラス筒をこすり、電気を起こす仕組みです。病に効くとうたわれましたが、実際は見世物として人を集めました。
※入手先は古道具屋とも、通詞の家から譲り受けたとも言われます。源内はほかに寒暖計「タルモメイトル」(1768年/明和5年)や、歩いた距離を測る量程器も作りました。
6. 燃えない布の正体は石綿

1764年(明和元年)2月に源内は秩父の中津川(現在の埼玉県秩父市)で見つけた石綿(アスベスト)を糸に紡ぎ、火に入れても燃えない布「火浣布」を織り上げました。これを幕府に献上し、オランダ人や中国人にも見せています。
ただ糸にするのが難しく産業にはなりませんでしたが、製法は『火浣布略説』に残されています。
※「火浣布(かかんぷ)」は石綿布のことです。石綿は現在、健康への影響が知られ使用が規制されています。
出典:早稲田大学図書館(古典籍総合データベース『火浣布略説』)
7. 鉱山も鉄も続かなかった

1766年(明和3年)の秋、源内は川越藩の秋元凉朝に依頼され、奥秩父の中津川で廃坑の金山を立て直そうとしました。しかし採れる量は少なかったため数年で休業に入ります。
続いて鉄山の開発にも乗り出しますが、これも行きづまり最後は木炭づくりに転じます。思いつきの多さと、事業を続ける力は別だったのでしょう。
※火浣布の材料になった石綿も、この中津川で見つかったものでした。
8. 解体新書の絵を生んだ縁

1773年(安永2年)、源内は鉱山調査のため秋田藩に招かれます。このとき角館で藩士の小田野直武に西洋画の技法を伝えました。
直武は江戸へ上り、翌1774年(安永3年)刊行の『解体新書』の挿絵を担当します。のちに秋田蘭画と呼ばれる流れの始まりでした。鉱山へ向かった旅が、医学書に残る解剖図を生んだのです。
※小田野直武(おだのなおたけ、1749〜1780)は江戸に出て7年後に亡くなりました。
出典:サントリー美術館(「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展解説・2016年)
筆名と伝説、そして最期
最後は、文筆の世界で見せた顔と、よく知られた伝説、そして源内の最期をたどります。
9. 風来山人という別の顔

源内は戯作者としても知られ、1763年(宝暦13年)に『根南志具佐』と『風流志道軒伝』を刊行しました。前者は閻魔大王が人気の女形に恋をして地獄へ連れ去ろうとする話、後者は講釈師が仙人の羽扇で大人国や女護島をめぐる話です。
笑いと皮肉をまぜたこうした読み物から、源内は江戸戯作の開祖と呼ばれています。
※戯作では「風来山人(ふうらいさんじん)」「天竺浪人」などの筆名を使い分けました。
10. 福内鬼外の名で浄瑠璃を

浄瑠璃を書くときは「福内鬼外」と名乗り、9編を残しました。代表作『神霊矢口渡』は1770年(明和7年)1月に江戸の外記座で初演された五段続で、『太平記』に出てくる新田義興の謀殺を脚色した物語です。
この作品は今も歌舞伎で上演されています。源内が手がけた演目が、250年以上たった今も舞台で生き続けています。
※「福内鬼外(ふくちきがい)」は福は内、鬼は外のもじりです。『神霊矢口渡』は合作で、源内が主要な作者とされます。
11. うなぎの伝説は裏づけなし

売れないうなぎ屋に「本日土用丑の日」と書いた紙を貼らせた話は、源内の逸話として広く語られます。ただ、これを裏づける一次資料は確認されていません。
源内が1774年に書いた『里のをだまき評』に江戸前のうなぎの話は出てきますが、土用の丑という言葉はありません。関連する文献も、すべて源内の没後に出たものです。
※1822年成立の『明和誌』は、丑の日にうなぎを食べる習慣が安永・天明の頃から始まったと記していますが、源内の名は出てきません。
12. 玄白が刻んだ「非常の人」

1779年(安永8年)11月に源内は口論から人を傷つけて投獄され、同年12月18日に獄中で亡くなりました。西暦では1780年1月24日にあたります。
親友の杉田玄白は墓碑に「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」と刻みました。ああ非常の人、非常の事を好み、行いも非常、なぜ非常に死んだのか、という意味です。
※牢は小伝馬町にあり、死因は破傷風と伝わります。事件の動機については諸説あります。
※墓は東京都台東区橋場にあり、碑文は1930年に墓地修築之碑の裏面へ刻まれました。
まとめ
源内は1757年(宝暦7年)に日本で最初とされる物産会を開き、石綿から燃えない布を織り、長崎で手に入れた壊れたエレキテルを復元しました。戯作では風来山人、浄瑠璃では福内鬼外と名を変え、『神霊矢口渡』は今も舞台に残っています。
一方で、鉱山事業は続かず、うなぎの伝説には裏づけが見つからず、最期は口論の末の獄中死でした。杉田玄白が墓碑に刻んだ「非常の人」という言葉は、うまくいったこともそうでないことも含めて、この人を言い当てているように思えます。
あわせて読みたい
更新日:2026年9月19日(土) 10:41

タイタニック号の雑学11選!救命ボート不足は違法ではなかった
グーテンベルクの雑学12選!聖書より先に免罪符を刷っていた
卑弥呼の雑学10選!天照大神のモデルだった説
アルキメデスの雑学12選!ひらめいて裸のまま街を走った天才
毛利元就の雑学14選!ご飯の匂いを漂わせ敵兵を寝返らせた
ルターの雑学11選!妻が醸造したビールが大好物
足利尊氏の雑学11選!すぐ絶望する繊細メンタルの真実
マゼランの雑学13選!世界一周を成し遂げたのは別人