浮世絵の雑学11選!名画1枚がそば1杯の値段だった

浮世絵と聞くと、美術館のガラスケースに収められた高価な芸術作品というイメージがあるかもしれません。

けれども江戸の町では、そば1杯ほどの値段で買える身近な印刷物でした。流行の役者や旅の風景、事件の噂まで、人々が知りたいものが次々と絵になり、時には幕府に取り締まられながらも作られ続けました。

絵師だけでなく彫師や摺師の技があって初めて形になる、職人たちの合作でもあります。

そんな浮世絵にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. 浮世絵の値段はそば1杯ぶん

浮世絵の値段はそば1杯ぶん

江戸時代の大判の錦絵は20文前後、役者絵は8文ほどで、かけそば1杯が16文だったので、そば1杯ぶんで名画が買えた計算になります。

人気の低いものは3〜6文だったともいわれ、2000枚売れれば大ヒット、歌川広重の東海道シリーズは1万枚以上摺られたとも伝わります。

※「錦絵(にしきえ)」は多色摺りの浮世絵、「文(もん)」は江戸時代のお金の単位です。

2. 名作の原画はほとんど残らない

名作の原画はほとんど残らない

絵師が描いた版下絵は、彫師が版木に裏返して貼りつけ、その上から彫っていくため、彫り屑と一緒に失われてしまいました。

そのため名作の原画はほとんど残っておらず、例外は出版が中止になったもので、葛飾北斎の版下絵103点が大英博物館に伝わっています。

※「版下絵(はんしたえ)」は版木を彫るための下絵のことです。

3. 天保の改革は色数まで規制した

天保の改革は色数まで規制した

天保13年(1842年)に出された触れでは、役者の似顔絵と遊女や芸者を描いた絵が禁じられ、続き物は3枚まで、色は7〜8度摺りまでと定められました。

値段も16文以下に抑えるよう決められ、絵の内容だけでなく色数や価格まで細かく口出しされる時代になりました。

4. 国芳の妖怪絵が風刺と読まれた

国芳の妖怪絵が風刺と読まれた

歌川国芳が天保14年(1843年)に描いた「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、ひしめく妖怪たちが改革でつぶされた人々を表しているという読み方が江戸の町に広まりました。

結末は版元が自主的に版木を処分したとも、幕府に没収されたともいわれ、はっきりしません。

※「源頼光公館土蜘作妖怪図」は「みなもとのよりみつこうのやかたにつちぐもようかいをなすず」と読みます。

5. 地震のあとに違法な鯰絵が氾濫

地震のあとに違法な鯰絵が氾濫

安政江戸地震(1855年)の直後には、幕府の許可を受けていない鯰絵が町に出回り、そこには作者名も版元名も検閲を通った印もありませんでした。

禁じられるまでの2か月ほどの間に、その種類は200を超えたともいわれ、人々の不安の受け皿になっていたようです。

※「鯰絵(なまずえ)」は、地震を起こすと考えられていた大鯰を描いた絵です。

6. 北斎ブルーは舶来の新顔料

北斎ブルーは舶来の新顔料

プロイセンの首都ベルリンで18世紀初めに偶然できた合成顔料プルシアンブルーは、18世紀半ばに長崎へ入り、19世紀になって安く出回ると一気に広まりました。

「ベルリンの藍」が略されて「ベロ藍」と呼ばれ、今「北斎ブルー」と呼ばれる青はこの顔料によるものです。

※「ベロ藍(ベロあい)」は、プルシアンブルーの江戸時代の呼び名です。

7. 髪の毛は1ミリに3本彫る

髪の毛は1ミリに3本彫る

歌川国貞の作品では、1ミリほどの幅の中に3本もの髪が彫り分けられていて、その細さは肉眼で一本ずつ追うのも難しいほどです。

最も細い透鑿の刃を0.1ミリ単位で入れていく「毛割」という工程で、これを担当できるのは長い修業を積んだ師匠クラスの「頭彫」だけでした。

※「透鑿(すきのみ)」は彫師が使う細い刃物、「頭彫(かしらぼり)」は頭部を彫る上位の彫師です。

8. 今見る浮世絵は当時と色が違う

今見る浮世絵は当時と色が違う

浮世絵に使われた露草の青はとくに退色が早く、紅も年月がたつと褐色に寄っていき、紫は青みのほうが先に失われやすいとされます。

美術館で目にする落ち着いた渋い色合いは、摺られた当時の姿ではなく、長い時間をかけて退色したあとの姿ということになります。

※「露草(つゆくさ)」は青い花の汁から作られた植物性の絵の具です。

9. 展示しない条件で寄贈された

展示しない条件で寄贈された

1921年、スポルディング兄弟はボストン美術館へ6000点を超える浮世絵を寄贈しましたが、光で色が飛ぶのを防ぐため、二度と展示しないという条件がついていました。

おかげで摺られた当時の色が残り、今では色の研究の基準とされ、デジタル画像で公開されています。

10. 事件を絵で報じた錦絵新聞

事件を絵で報じた錦絵新聞

明治7年(1874年)、版元の具足屋が『東京日日新聞』の記事をもとに、人気絵師の落合芳幾の絵を添えて売り出したのが錦絵新聞の始まりとされます。

中身は殺人や刃傷沙汰、不倫といった三面記事が中心で、1881年頃には安価で手軽な小新聞に押されて姿を消しました。

※「刃傷沙汰(にんじょうざた)」は刃物を使った争いごと、「小新聞(こしんぶん)」は庶民向けの読みやすい新聞です。

11. 禁止されても消えなかった春画

禁止されても消えなかった春画

享保7年(1722年)の出版取締令によって春画は取り締まりの対象になりましたが、人々の需要そのものが消えることはありませんでした。

絵師や版元は本名とは別の名を使って身元を隠すという抜け道を選び、こうした作品は幕末まで作られ続けたとされています。

更新日:2026年8月15日(土) 09:38

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