千円札の顔として親しまれた野口英世。実はアメリカへ渡る資金を送別の宴で使い果たし、恩師に借金までさせたことがあります。ノーベル賞の候補に何度も推薦された医学者には、こんな人間くさい一面もあったのです。
英世は1876年(明治9年)に今の福島県猪苗代町の農家に生まれ、アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に、細菌学者として世界で活躍しました。
そんな野口英世にまつわる雑学を10個ご紹介します。
やけどと改名の少年時代
まずは、英世が医学の道を志すまでの少年時代から。左手のやけどや名前にも、意外な話が隠れています。
1. 左手のやけどと重ねた手術

野口英世は1878年(明治11年)4月、1歳半のときに囲炉裏に落ちて、左手に大やけどを負いました。指は松の木のこぶのようにくっついてしまったそうです。
15歳のとき、友人たちが出し合ったお金で改めて手術を受け、指がある程度使えるようになりました。その後も手術を重ねましたが、左手の変形が完全に治ることはありませんでした。
※囲炉裏(いろり)は、床を四角く切って火をたく、昔の家の暖房兼台所です
2. 床柱に刻んだ決意の言葉

1896年(明治29年)、19歳の英世は医者になる試験を受けるため、ふるさとから東京へ向かいます。そのとき生家の床柱に刻んだのが「志を得ざれば再び此地を踏まず」という言葉でした。
目標をかなえるまでは二度とこの地に戻らない、という強い決意の表れです。この柱は猪苗代町の野口英世記念館に残る生家で、今も見ることができます。
※床柱(とこばしら)は、床の間の脇に立てる飾りの柱です
※当時の医者になるための国の試験は「医術開業試験」と呼ばれていました
3. 本名は清作、小説が改名の理由

英世の本名は清作でしたが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』に、遊びにおぼれて落ちぶれていく医学生「野々口精作」が登場するのを見て、自分の名前とそっくりなことに衝撃を受けました。
モデルだと思われるのを嫌って、1898年(明治31年)に「英世」へ改名します。戸籍の名前を変えるため、同じ村に「野口清作」が2人いる状態をつくったという説もあります。
※書生(しょせい)は、ここでは学生のことです
お金の失敗と研究の光と影
続いては、アメリカへ渡ってからの英世です。お金にまつわる失敗から、評価が分かれる研究まで見ていきましょう。
4. 渡米資金を宴会で使い果たす

1900年(明治33年)、英世はアメリカへ渡る資金を、婚約相手の家から受け取ったお金などで用意しました。ところが送別の宴を開いて、その大半を使い果たしてしまいます。
困った英世を救ったのは、上京後から面倒を見てくれた歯科医の血脇守之助でした。血脇は高利貸しから300円を借りてまで、英世をアメリカへ送り出したのです。
※高利貸し(こうりがし)は、高い利息でお金を貸す人のことです
※使ってしまった金額や宴の場所については、諸説あります
5. 梅毒の病原体を脳から発見

英世の研究で今も高く評価されているのが梅毒に関するもので、1913年(大正2年)に進行麻痺という病気の患者の脳から、梅毒の病原体を見つけ出しました。
これにより、この病気が梅毒によって起こることがはっきりします。一方、1911年(明治44年)に発表した病原体の純粋培養は、ほかの研究者が再現できませんでした。
※梅毒の病原体は「梅毒スピロヘータ」と呼ばれる細菌です
※進行麻痺は、梅毒が脳に及んで記憶や体の動きが衰えていく病気です
※純粋培養は、ほかの菌をまぜずにその菌だけを育てることです
出典:Journal of Experimental Medicine(1913年)
6. ノーベル賞候補は9回なっている

英世はノーベル生理学・医学賞の候補として、何度も推薦を受けています。日本では「3度候補になった」と紹介されることが多いものの、推薦記録では9回とされます。
推薦は1913年(大正2年)から1927年(昭和2年)まで続きました。推薦した研究者は、世界で24人にのぼるそうです。しかしそれでも受賞には届かないまま、英世はこの世を去りました。
※推薦の回数は、数え方によって資料ごとに異なります
7. 黄熱病の「発見」は間違いだった

1918年(大正7年)、英世は南米のエクアドルで黄熱病の病原体を見つけたと発表しました。しかし実際には、症状のよく似たワイル病の病原体だったことが、のちに分かっています。
黄熱病の原因は、当時の顕微鏡では見えないほど小さなウイルスでした。英世がポリオや狂犬病の病原体として報告したものも、今では否定されています。
※ワイル病は、ネズミなどを通じてうつる細菌の病気で、高い熱や黄疸(おうだん)が出ます
母の手紙と最期、そして千円札
最後は、母とのつながりや英世の最期、そして死後の千円札の話です。
8. 母シカの手紙と1度きりの帰国

渡米して10年あまりたったころ、英世のもとに故郷の母シカから手紙が届きました。読み書きが苦手だったシカが「はやくきてくだされ」と何度も書き、帰国を願う思いをつづったものです。
英世が15年ぶりに帰国したのは1915年(大正4年)。母を連れて恩師らと関西を旅しましたが、渡米後の帰国はこの1度きりでした。
9. 黄熱病の研究中に黄熱病で死去

黄熱病の研究を続けた英世は、1927年(昭和2年)に西アフリカのアクラへ向かいます。ところが研究の途中で自らも黄熱病にかかり、1928年(昭和3年)に51歳で亡くなりました。
最期に残した言葉は「私にはわかりません」だったと伝えられます。遺体はアメリカに運ばれ、今はニューヨークの墓地に眠っています。
※アクラは、今のガーナの首都です
10. なぜ千円札の顔になったのか

2004年(平成16年)、英世は夏目漱石に代わって千円札の顔になりました。世界で活躍した医学者として広く知られていたことが理由とされ、医学者がお札の肖像になったのは初めてです。
2024年(令和6年)には、北里柴三郎へ交代しました。北里は英世が若いころに勤めた伝染病研究所のトップで、いわば元上司にあたります。
※伝染病研究所は、感染症の原因や治療法を研究するためにつくられた機関です
まとめ
野口英世は、渡米資金を送別の宴で使い果たし、恩師に借金までさせた型破りな一面を持つ人物でした。その一方で、梅毒の病原体を患者の脳から見つけ出すなど、今も評価される業績を残しています。
ノーベル賞の推薦記録では9回候補になったとされますが、黄熱病の研究では誤りもありました。最後はその黄熱病にかかり、アフリカで51歳の生涯を閉じています。
長所も短所もはっきりした素顔を知ると、千円札の肖像も少し違って見えてきそうです。
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更新日:2026年10月2日(金) 11:30

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