斎藤道三の雑学12選!マムシの異名は小説が広めた

戦国時代の美濃を治めた斎藤道三は、油売りから大名にのし上がった下剋上の代表格として知られています。

ところが研究が進むにつれて、その国盗りが父と子の二代がかりだったことが分かり、人物像も少しずつ書き換えられてきました。

織田信長との会見や娘の帰蝶にまつわる逸話、さらには意外なところへつながる血筋まで、道三の周りには語り継がれてきた話が数多く残っています。

そんな斎藤道三にまつわる雑学を12個ご紹介します。

1. マムシの異名はいつから

マムシの異名はいつから

道三をマムシと呼んだ例は、坂口安吾の小説より前には見つかっていないとされています。

戦国時代に彼をそう呼ぶ人はいなかったようで、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』が1963年から連載されて人気を集めたことで、この強烈な異名が全国へ広まったと考えられています。

2. 一文銭の穴を通す油売り

一文銭の穴を通す油売り

江戸時代前期の軍記『美濃国諸旧記』には、のちに道三の逸話として語られてきた油売りの話が出てきます。

漏斗を使わずに一文銭の穴へ油を通し、こぼれたら代金はいただかないという売り口上で客を集めたと伝わっていますが、同時代の史料による裏付けはありません。

※「漏斗(じょうご)」は液体を細い口に注ぎ入れるための道具です。

※「美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)」は江戸時代前期に書かれた軍記です。

3. 国盗りは親子二代の事業

国盗りは親子二代の事業

六角承禎条書写によれば、妙覚寺の僧から還俗して西村を名乗り、美濃へ移って長井弥二郎に仕えたのは父の長井新左衛門尉でした。

油売りの逸話もこの前半生ごと父のものとみられており、道三本人が同時代の文書に確実に現れるのは天文2年の長井新九郎規秀からです。

※「六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょうつし)」は近江の大名が書いた文書の写しです。

※「還俗(げんぞく)」は僧が僧籍を離れて俗人に戻ることです。

4. 定説がくつがえったのは半世紀前

定説がくつがえったのは半世紀前

1973年に『岐阜県史 史料編』が六角承禎条書写を収め、同年4月の斎藤道三展の説明書で親子二代説が発表されました。

翌1974年には松田亮が『斎藤道三文書之研究』を出しており、一代の国盗りという定説がくつがえったのは、意外にも半世紀ほど前のことです。

※「史料編」は自治体史のうち、古文書などの原史料を集めた巻のことです。

5. 正徳寺の会見と早着替え

正徳寺の会見と早着替え

天文22年4月下旬、尾張富田の正徳寺で道三は信長と会見しました。

信長は道中を普段着で通し、屏風の陰で髷を結い直して正装で現れ、帰り道に猪子兵介が「やはりたわけでした」と言うと、道三は「わが子はあのたわけの門前に馬を繋ぐことになるだろう」と返しました。

※尾張富田は現在の愛知県一宮市にあたります。

※「猪子兵介(いのこひょうすけ)」は道三に仕えた家臣です。

6. 道三がため息をついた理由

道三がため息をついた理由

『信長公記』によると、正徳寺へ向かう信長は槍500本と弓鉄砲500丁を引き連れていたといいます。

会見の帰り際、道三は尾張衆の槍が美濃衆のものより長くそろえてあることに気づいてため息をついたと伝えられ、若い信長の力量を静かに見抜いていたのかもしれません。

※「信長公記(しんちょうこうき)」は家臣の太田牛一が記した信長の一代記です。

7. 娘の帰蝶に持たせた短刀

娘の帰蝶に持たせた短刀

道三は嫁ぐ娘の帰蝶に短刀を持たせ「うつけなら寝首を掻け」と言ったところ、「父上の首を掻くことになるかもしれませぬ」と返されたという逸話が伝わります。

婚姻は天文18年ごろとみられますが、江戸時代の読み物に見える話で、後世の創作の可能性が高いようです。

※「帰蝶(きちょう)」は道三の娘で、濃姫とも呼ばれます。

8. 楽市の始まりは信長より前

楽市の始まりは信長より前

信長が永禄10年に出した加納の楽市令は、それ以前から加納にあった市の特権をあらためて認め直した内容でした。

斎藤氏の時代にはすでに商人が自由に行き来できる市が整えられていたことになり、楽市という言葉自体にも近江の六角氏に先例があったとされています。

※「楽市」は税や特権をゆるめて、誰でも商売できるようにした市のことです。

9. 父を討った巨漢の息子

父を討った巨漢の息子

道三の息子である義龍は身の丈6尺5寸、およそ197センチの大男だったと伝わり、系図によっては6尺8寸、約206センチとするものもあります。

実父が土岐頼芸だという説は後世に広まった俗説であり史実ではないとされ、義龍自身は足利義輝から一色の名字を許された人物です。

※6尺5寸などの身長は軍記や系図に載る数字で、確かめようがありません。

※「一色(いっしき)」は室町幕府の有力大名の家名で、義龍は永禄2年に当主と認められました。

10. 長良川の戦いで迎えた最期

長良川の戦いで迎えた最期

弘治2年4月20日の長良川の戦いは、道三方2500から2700ほどに対し義龍方は1万7500ほどと伝わり、6倍から7倍の差でした。

道三は長井忠左衛門に組み付かれた末に小牧源太に討たれ、忠左衛門は手柄の証に鼻を削いで持ち去り、援軍の信長も大良口までで引き返しました。

※「大良口(だいらぐち)」は現在の岐阜県羽島市あたりにあった渡し場です。

11. 死の前日に書いた美濃国譲り状

死の前日に書いた美濃国譲り状

道三は死の直前、娘婿の信長に美濃一国を譲るという譲り状を書いたと伝わり、日付は長良川の戦いの前日、4月19日です。

妙覚寺と大坂城天守閣に伝わりますが、いずれも写しで偽文書とする説もあり、信長が実際に美濃を手に入れたのは11年後の永禄10年でした。

※「譲り状」は所領などを譲り渡すことを記した文書です。

12. 道三の血は今の天皇家へ

道三の血は今の天皇家へ

道三の娘は美濃の武将稲葉貞通に嫁ぎ、その子として稲葉典通が生まれました。

稲葉家からはのちに勧修寺婧子が出て、その子が仁孝天皇となっており、稲葉家の系図によるものではありますが、道三の血は母方をたどって現在の天皇家へつながっていることになります。

※「勧修寺婧子(かじゅうじただこ)」は光格天皇の側室で、仁孝天皇の生母です。

更新日:2026年8月15日(土) 09:47

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