坂本龍馬は、幕末に薩摩藩と長州藩の手を結ばせ、新しい時代への道を開いた土佐出身の志士です。1867年(慶応3年)、京都で襲われて亡くなりました。
長崎で仲間と商社のような組織を動かす一方、故郷の姉にユーモアあふれる手紙を送る人間らしい一面もありました。ドラマや小説で描かれる今の英雄としての姿には、明治以降に少しずつ形づくられた部分も少なくありません。
そんな坂本龍馬にまつわる雑学を11個ご紹介します。
志士として動いた仕事
まずは、薩摩と長州の間を取り持ち、長崎で仲間と商いをした龍馬の仕事ぶりを見ていきましょう。
1. 武器と米を交換させた男

1865年(慶応元年)、龍馬は長崎で亀山社中を結成しました。幕府ににらまれて武器を買えない長州のため、薩摩藩の名義でミニエー銃4300挺やゲベール銃3000挺を調達します。
見返りに、長州は兵糧米を薩摩へ回しました。薩摩名義で買った蒸気船ユニオン号の運用も社中が担い、こうした協力が翌年1月の薩長同盟につながりました。
※亀山社中は、のちの海援隊の前身となった組織です。
2. 高杉から贈られた拳銃

龍馬は、長州の高杉晋作から贈られたアメリカのスミス&ウェッソン社の拳銃を持っていました。6連発だったとされますが、異説もあります。
1866年(慶応2年)1月23日の深夜、京都伏見の寺田屋で捕り方に囲まれた龍馬は、この拳銃で応戦して逃げ延びました。拳銃は事件の中で失われ、のちに薩摩で別の拳銃を手に入れています。
※寺田屋は伏見の船宿で、龍馬がよく泊まっていた宿です。
3. 給料は自分で稼げの規約

亀山社中・海援隊は日本初の商社とも呼ばれますが、藩を抜けた浪士も多く集まっていました。規約「海援隊約規」には、本藩を脱する者、他藩を脱する者、海外の志ある者が隊に入ると書かれています。
隊で使うお金は、自分たちで稼いだ利益でまかない、互いに分け合うのが決まりでした。亀山社中の結成時には、薩摩藩から月3両2分の手当が出ていたそうです。
※約規の原文には「其自営ノ功ニ取ル」とあり、自分たちの働きで得ることを定めています。
手紙や旅から見える素顔
身長や服装、妻のお龍との旅、家族への手紙からは、龍馬の人柄がうかがえます。
4. 身長は170センチ台か

龍馬の身長を実際に測った記録は残っていません。知人たちの証言も、田中光顕は5尺7寸、関義臣は5尺8寸、信太歌之助は5尺9寸と少しずつ違います。
今の単位にすると、約173〜179センチです。当時の男性の平均は150センチ台半ばとも言われ、周りの人より大柄だったと考えられます。
※1尺は約30.3センチ、1寸は約3センチです。
5. ブーツを履いた理由は謎

紋付袴にブーツという姿は、龍馬のトレードマークです。ただ、なぜブーツを履いたのかを書き残した史料は見つかっていません。
歩きやすいからという実用性の説や、新しいもの好きだったからという説などが語られています。写真によって靴の形が違って見えるという指摘もあり、何足持っていたかははっきりしません。
※紋付袴は、家紋の入った着物に袴を合わせた正装です。
6. 新婚旅行は日本初ではない

寺田屋事件で両手の親指などに傷を負った龍馬は、療養を兼ねて1866年(慶応2年)の旧暦3月、妻のお龍と鹿児島・霧島の温泉を巡りました。
この旅は、後の時代に「日本初の新婚旅行」と呼ばれるようになります。ただ、漢詩人の梁川星巌は結婚2年後の1822年(文政5年)から足掛け5年ほど妻と旅をしており、龍馬より44年も早い例です。
※梁川星巌は、江戸時代後期の漢詩人です。
7. 山頂の天の逆鉾に大笑い

1866年(慶応2年)、龍馬とお龍は霧島で高千穂峰に登り、山頂に立つ天の逆鉾を見ました。同じ年の12月4日付で乙女に送った絵入りの手紙には、その形を「天狗の面」のようだと書き、2人で大笑いしたと記しています。
逆鉾を引き抜いたという有名な話は、お龍の晩年の回想によるものです。お龍は、自分が引き抜いたと話しています。
※天の逆鉾は、神話で神が地上に突き立てたと伝わる鉾です。お龍の回想は『千里駒後日譚』に残っています。
8. 姉への手紙に名言あり

龍馬の手紙は約140通が今に残っていて、故郷の土佐にいる姉の乙女に宛てたものが多く見られます。近況を知らせる内容が中心で、ユーモラスな絵を添えた手紙もあります。
よく知られる「日本を今一度せんたくいたし申候」という一節も、1863年(文久3年)6月29日付の乙女宛の手紙に書かれたものです。
※「せんたくいたし申候」は「洗濯いたします」という意味です。
死後につくられた龍馬像
最後は、龍馬の最期と、今のイメージが広まっていった経緯を紹介します。
9. 黒幕はいなかったという説

1867年(慶応3年)11月15日、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲われ、命を落としました。実行犯は、幕府の京都見廻組とする見方が一般的です。
前年の寺田屋事件で捕り方を殺傷した龍馬を捕らえる職務だったとして、黒幕はいなかったとする説も有力視されています。薩摩藩黒幕説なども、今なお議論が続いています。
※京都見廻組は、京都の治安を守るために幕府が置いた組織です。
10. 皇后の夢で一躍英雄に

明治に入っても、龍馬の名は一部で知られていました。1883年(明治16年)には土陽新聞で小説『汗血千里駒』の連載が始まって評判となり、1891年(明治24年)には正四位が贈られています。
全国に名が広まったのは、日露戦争の開戦直前の1904年(明治37年)2月でした。皇后の夢に白い着物の武士が現れて海軍を守ると告げ、香川敬三が写真を見せるとその人が龍馬だったという話が、新聞で伝えられたのです。
※皇后は、のちの昭憲皇太后です。正四位は、国が功績のあった人に贈る位のひとつです。
11. 「りゅうま」読みは小説から

龍馬を「りょうま」と読む手がかりは、本人の手紙にあります。1867年(慶応3年)1月20日付の姪・春猪宛ての手紙に、「りよふより」と署名しているのです。
「りゅうま」とも呼ばれるのは、1883年(明治16年)の小説『汗血千里駒』のふりがなが定着したためとされます。正式な署名に使う実名は、はじめ「直陰」、のちに「直柔」でした。
※直陰は「なおかげ」、直柔は「なおなり」と読みます。「りよふ」は今の仮名遣いで「りょう」です。
まとめ
坂本龍馬は、亀山社中を率いて薩摩と長州の間で武器と米の取引をまとめ、薩長同盟への流れをつくった人物です。海援隊の規約からは、自分たちで稼ぎながら活動を続けようとした姿も見えてきます。
一方で、日本初の新婚旅行や天の逆鉾を引き抜いた話のように、後の時代に広まった呼び名や逸話も少なくありません。全国的な英雄になったのも、亡くなってから30年以上たった明治の後半でした。史料と伝説を分けて読むと、龍馬の新しい一面が見えてくるかもしれません。
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更新日:2026年9月29日(火) 10:30

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