「松尾芭蕉は伊賀の忍者だった」という話を聞いたことはありませんか。実はこの説は昭和生まれで、芭蕉が忍者だった記録はありません。若いころの芭蕉は料理人として仕え、江戸では水道工事にも関わっていました。
名句「古池や」の成り立ちや『おくのほそ道』に含まれる創作、亡くなったあとに神としてまつられた話まで、俳聖の意外な素顔は数多く残っています。
そんな松尾芭蕉にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
忍者じゃない芭蕉の素顔
まずは、俳人として名を上げる前の芭蕉の姿から。忍者説の真相や意外な仕事の数々を見ていきましょう。
1. 忍者説の出どころは昭和

芭蕉=忍者というイメージは、江戸時代からの言い伝えではありません。三重大学の吉丸雄哉氏によると、起源は1966年(昭和41年)刊行の松本清張・樋口清之『東京の旅』とされます。
芭蕉は1644年(寛永21年)に伊賀国で生まれましたが、家は父の代で農民となっており伊賀者ではないのです。同時代の史料にも、忍術に関わった記録は見当たりません。
※母が伊賀の百地氏の出という説も、資料上は結びつかないと否定されています。服部半蔵正成は1597年に亡くなっており、芭蕉とは年代が合いません
2. 歩いた距離は人並み以下

曽良の旅日記を分析した研究では、芭蕉の総歩行距離は1728.1km、1日平均は28.3kmでした。1日に進む距離は同時期の旅人より短く、近世の平均的な人物に劣るという結果です。
ただし酷暑や雨の日でも時速3〜4kmのペースを保ち、1日5〜8時間歩いています。数え46歳での旅ですから、速さより粘り強さが持ち味だったのでしょう。
出典:谷釜尋徳「松尾芭蕉の歩行能力の検証」(体育学研究、2021年)
3. 若いころは藤堂家の料理人

18〜19歳ごろの芭蕉は、伊賀の侍大将・藤堂新七郎家の嫡子である良忠に料理人として仕えたといわれます。2歳年上の良忠は北村季吟に俳諧を学んでおり、その縁で芭蕉も俳諧を始めました。
ところが良忠は1666年(寛文6年)、数え25歳で世を去ります。遺骨を高野山に納めたとされる芭蕉は、その後藤堂家への奉公をやめました。
※役目は台所方とも、そばに仕える扈従だったとも伝わります。良忠の俳号は蝉吟です
4. 水道工事で4年働いた

1677年(延宝5年)から4年間、芭蕉は江戸の神田上水の工事に関わっていました。門人の許六が編んだ『本朝文選』に「武の小石川の水道を修め、四年にして成る」とあり、仕事は人足の帳簿づけだったとみられます。
同じころ芭蕉は俳諧の宗匠として独立し、日本橋で句の添削をして謝礼を得ていました。先生業と工事の仕事の掛け持ちです。
※『本朝文選』はのちに『風俗文選』と改題されました
5. 芭蕉の名は庭の草から

1680年(延宝8年)に移り住んだ深川の庵は、門人で魚問屋の杉山杉風の別宅の一角とされます。そこへ門人の李下がバショウの株を贈り、よく茂ったことから人々が「芭蕉庵」と呼ぶようになります。
本人もやがてこれを号にしました。それまでの庵名は杜甫の詩にちなむ「泊船堂」で、杉風はその後も生涯にわたる支援者でした。
※バショウはバナナと同じバショウ科の植物です
名句と紀行の意外な裏側
続いては、誰もが知る名句と『おくのほそ道』の舞台裏です。教科書ではあまり語られない成り立ちや論争を取り上げます。
6. 古池やは後から決まった

各務支考『葛の松原』によれば、先にできたのは「蛙飛びこむ水の音」でした。芭蕉は上五を門人に考えさせ、其角の「山吹や」を退けて、古池は「質素にして実なり」として選んだのです。
では蛙は1匹なのでしょうか。日本語は数を区別しませんが、小泉八雲は1898年(明治31年)に frogs と複数形で訳しており、複数と読む研究者もいます。
※初出は1686年(貞享3年)の『蛙合』です。同年の『庵桜』には「蛙飛ンだる」の形が先に載っています
7. 蝉の種類をめぐる大論争

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、1689年(元禄2年)5月27日に山形の立石寺で詠まれました。1926年(大正15年)、歌人の斎藤茂吉がこの蝉をアブラゼミと断定します。
翌年に小宮豊隆は、静けさを詠んだ句に合わないうえ時期的にもまだアブラゼミは鳴かないとして、ニイニイゼミを唱えました。茂吉は実地調査を重ね、1932年(昭和7年)に誤りを認めています。
※5月27日は旧暦で、新暦では7月13日にあたります。茂吉の断定は雑誌『改造』に載りました
8. 松島やは芭蕉の句ではない

「松島やああ松島や松島や」は芭蕉の作ではありません。1821年(文政4年)の『松島図誌』に、相模の田原坊という人の句として「松島やさてまつしまや松島や」の形で載っています。
芭蕉の記事の近くに置かれていたことが、取り違えの一因とみられます。『おくのほそ道』の松島の段にも芭蕉の句はなく、載るのは曽良の句だけです。
※『松島図誌』は桜田周輔の編。芭蕉が松島を詠んだとされる句には「島々や千々にくだきて夏の海」があります
9. おくのほそ道には創作あり

1689年(元禄2年)3月27日に江戸を出た旅は、約150日で約600里、およそ2400kmの旅程とされます。ただし同行した曽良の日記では出発が「三月廿日」で、記述が食い違うのです。
市振の宿で遊女と出会う段も曽良の記録になく、創作とみられます。執筆は晩年の約2年と推測され、刊行は没後の1702年(元禄15年)でした。
※2400kmは旅程全体の長さで、2で紹介した歩行距離とは別の数字です。曽良の日記は1938年(昭和13年)に伊東の旧家で見つかりました
死の旅と神になった俳聖
最後は、旅の途中で迎えた最期と、亡くなったあとの芭蕉の評価についてです。
10. 亡骸は舟で近江へ運ばれた

1694年(元禄7年)、芭蕉は門人の之道と洒堂の不仲を仲裁するため大坂へ来て体調を崩し、10月12日に数え51歳で亡くなりました。
遺骸は夜ひそかに長櫃へ納められ、商人の荷物に見せかけて川舟で淀川を上り膳所へ運ばれます。遺言どおり14日に義仲寺の木曽義仲の墓の隣に葬られ、其角は300人余りが駆けつけたと記しました。
※亡くなった場所は南御堂前の花屋仁左衛門の貸座敷。遺言は「偖からは木曾塚に送るべし」でした
11. 旅に病での句は辞世ではない

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、亡くなる4日前の夜に門人の呑舟へ書き取らせた句です。前書は「病中吟」で、辞世ではないとする説が有力です。
『芭蕉翁行状記』の「平生則チ辞世なり」は、ふだんの句すべてが辞世という考え。翌日に「清滝や波に散込青松葉」を改作しており、こちらを最後の句とする見方もあります。
12. 神になり子規に酷評された

死後の芭蕉は1791年(寛政3年)に「桃青霊神」とされ、1843年(天保14年)の百五十回忌には二条家から「花本大明神」の神号を贈られました。
一方、正岡子規は1893年(明治26年)からの『芭蕉雑談』で「過半悪句・駄句」と評し、千余首のうち良い句は二百余首だとしています。歴史的な意義は認めたうえで、句の出来を厳しく問うたのでした。
※花本は西行の歌「願はくは花の下にて春死なむ」にちなみます。『芭蕉雑談』は新聞『日本』に連載されました
まとめ
松尾芭蕉の忍者説は昭和の本が起源とされ、同時代の史料に忍術の記録はありません。実際の芭蕉は料理人として仕えたり、神田上水の工事に関わったりしながら俳諧の道を歩んでいました。
『おくのほそ道』は事実そのままの旅日記ではなく、創作を含む文学作品とみられています。「松島やああ松島や松島や」のように、芭蕉の句ではないものが広まっている例もあるのです。
死後は神としてまつられる一方、正岡子規には厳しく批判されました。評価の揺れも含めてたどると、芭蕉の句の味わいが少し変わってくるかもしれません。
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更新日:2026年9月22日(火) 12:11

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