孔子の一族の家系図には約200万人が名を連ね、世界最長の家系図とされています。古い記録には、周りの人が珍しがるほどの長身だったとも書かれているのです。
孔子は紀元前551年ごろ、今の中国・山東省にあたる魯の国で生まれました。儒教の祖とされる思想家・教育者で、紀元前479年に亡くなるまでに約3000人の弟子を育てたと伝わります。
そんな孔子にまつわる雑学を15個ご紹介します。
孔子の生まれと家族の話
まずは孔子の名前や背丈、両親や息子など、生い立ちと家族にまつわる話です。
1. 「丘」という名前の由来

孔子の本名は孔丘で、字は仲尼といいます。『史記』では、生まれつき頭のてっぺんがくぼみ、周りが盛り上がっていたのが「丘」の由来とされます。
両親が尼丘山という山に祈って授かったことにちなむともされています。字の「仲」は次男という意味で、孔子には孟皮という異母兄がいました。
※孔丘(こうきゅう)、仲尼(ちゅうじ)、尼丘山(じきゅうざん)、孟皮(もうひ)と読みます
※字(あざな)は、本名とは別に使う呼び名です
2. 身長は2mを超えていた?

『史記』には、孔子の背丈は9尺6寸で、人々は「長人」と呼んで珍しがったとあります。尺の長さは時代で違い、今の単位では約190〜220cmと幅が出るのです。
2mを超えるのは、約23cmとされる漢の時代の尺で計算した場合だけ。前漢の墓から出た漆器に約180cmにあたる記述があったとも報じられ、本当の背丈ははっきりしません。
※「長人(ちょうじん)」は、背の高い人という意味です
※漆器の記述は報道によるもので、正式な読み解きは確認できていません
3. 父と母の年の差は50歳以上?

父の叔梁紇と母の顔徴在は、かなり年の離れた夫婦だったようです。『史記』は2人の結婚を「野合」と書くだけで、年齢には触れていません。
唐の時代の注釈などでは、父は60代後半から70歳前後だったとされます。母はまだ10代半ばだったという説です。「野合」は、正式な形をとった結婚ではなかったとも解釈されています。
※叔梁紇(しゅくりょうこつ)、顔徴在(がんちょうざい)、野合(やごう)と読みます
※両親の年齢は後の時代の注釈によるもので、諸説あります
4. 若い頃は倉庫番と牧場番

思想家として名を残した孔子も、若い頃は地道な仕事で暮らしを立てていました。20歳前後から20代にかけて、魯の有力貴族・季氏のもとで働いたと『史記』は記しています。
『孟子』によると、倉庫の出納係では帳簿をきちんと合わせることに、家畜の世話係では牛や羊を健康に育てることに徹しました。
※倉庫の出納係は委吏(いり)、家畜の世話係は乗田(じょうでん)と呼ばれました
※季氏(きし)と読みます。出納(すいとう)は、お金や品物の出し入れのことです
5. 息子の名前は魚の「鯉」

孔子の長男の名前は孔鯉で、字は伯魚です。息子が生まれたとき、魯の君主・昭公から祝いの鯉を贈られ、それを記念して名付けたと『孔子家語』に伝わります。
名前にも字にも魚が入っているのは、このためでした。孔鯉は紀元前483年ごろ、父より先に50歳で亡くなっています。
※孔鯉(こうり)、伯魚(はくぎょ)、昭公(しょうこう)、孔子家語(こうしけご)と読みます
弟子と旅と暮らしの逸話
続いては弟子たちとの関わりや各地を巡った旅、ふだんの暮らしぶりがわかる話を集めました。
6. 一を聞いて十を知るのは顔回

「一を聞いて十を知る」は、弟子の顔回を評した言葉です。『論語』によると、顔回と比べられた子貢が「顔回は一を聞いて十を知り、私は二を知るだけ」と答えました。
孔子の返事は「私もお前も及ばない」とも「確かにお前は及ばない」とも読めます。顔回が若くして亡くなると、孔子は「天は私を滅ぼした」と嘆きました。
※顔回(がんかい)、子貢(しこう)と読みます
※孔子の返事の読み方は2通りあり、どちらとも定まっていません
7. 愛弟子・子路の最期と塩辛

弟子の子路は、紀元前480年に衛の内乱で命を落としました。『春秋左氏伝』によると、斬られた冠のひもを「君子は死んでも冠を脱がない」と結び直して討たれています。
『礼記』には、子路の遺体が肉の塩漬けにされたと聞き、孔子が家の塩漬けをひっくり返して捨てさせたとあります。その翌年、孔子もこの世を去りました。
※子路(しろ)、衛(えい)、春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)、礼記(らいき)と読みます
※君子(くんし)は、立派な人物のことです
※肉の塩漬けは醢(ししびしお)と呼ばれ、塩辛のような食べ物です
8. 長い放浪と「喪家の狗」

孔子は50代半ばで魯を離れ、自分の考えを生かしてくれる君主を求めて諸国を巡りました。旅は13年あまりに及び、魯に戻ったのは68歳のときです。
鄭の国で弟子とはぐれたとき、孔子は「喪家の狗のようだ」と言われてしまいます。それを聞いた孔子は「その通りだ」と笑って認めた、と『史記』は伝えています。
※喪家の狗(そうかのいぬ)は、飼い主に世話されず、やつれた犬のことです
※鄭(てい)と読みます
※旅に出た年齢や旅の年数は、数え方によって1年ほどの幅があります
9. 肉の味を忘れた3か月

『論語』によると、孔子は斉の国で「韶」という音楽に出会い、3か月も肉の味がわからなくなりました。「音楽がここまですばらしいとは思わなかった」という言葉も残っています。
『史記』では、ただ聞いただけでなく韶を学んでいたとされます。食事の味もわからないほど、音楽に打ち込んでいたのでしょう。
※斉(せい)、韶(しょう)と読みます
10. 食事に細かいこだわりあり

『論語』には、孔子の食事の作法がくわしく記録されています。切り方が正しくないものや、合うたれがないものは口にしなかったそうです。
店で買った酒や干し肉は食べず、生姜は下げさせずに食べました。食べすぎず、食事中はしゃべらず、酒は量を決めないものの乱れるほどは飲まなかったとあります。
※たれは醤(しょう)と呼ばれる調味料のことです
『論語』と現代に続く孔子
最後は、孔子の言葉を伝える『論語』と、日本や現代にまで続く孔子のつながりを紹介します。
11. 『論語』は孔子の著書ではない

『論語』は、孔子が自分で書いた本ではありません。孔子の死後、弟子や孫弟子の世代が先生の言葉や行いをまとめたもので、誰が編纂したかには諸説あります。
全20篇・約500章からなり、多くの章が「子曰く」で始まります。「先生がおっしゃった」という意味で、弟子が師の言葉を書き留めた形になっているのです。
※子曰く(しのたまわく)と読みます。編纂(へんさん)は、資料を集めて本にまとめることです
※章の数は数え方によって、490余りから512まで幅があります
12. 「不惑」「而立」は孔子の自分史

孔子は15歳で学問を志し、30歳で「而立」、つまり自立したと人生を振り返りました。40歳で「不惑」となって迷いがなくなり、50歳で天命を知ったと続きます。
60歳で人の言葉を素直に聞き入れ、70歳では心のままに動いても道を外れなくなったといいます。本来は年齢の呼び名ではなく、その年齢で至った境地を表す言葉です。
※而立(じりつ)、不惑(ふわく)と読みます。天命(てんめい)は、天から与えられた使命のことです
※ほかの年齢は、15歳が志学(しがく)、50歳が知命(ちめい)、60歳が耳順(じじゅん)、70歳が従心(じゅうしん)と呼ばれます
13. 東京に高さ4.57mの孔子像

東京・御茶ノ水の湯島聖堂には、高さ4.57m、重さ約1.5トンの孔子の銅像が立っています。1975年(昭和50年)に台北ライオンズクラブから贈られたもので、当時は世界最大の孔子銅像といわれました。
湯島聖堂は、林羅山の私塾にあった孔子廟がもとになった建物です。1690年(元禄3年)に、徳川綱吉が今の場所へ移して建てました。
※湯島聖堂(ゆしませいどう)、林羅山(はやしらざん)と読みます
※孔子廟(こうしびょう)は、孔子をまつる建物のことです
※「世界最大」は寄贈当時の評価です
14. 約200万人が載る最長の家系図

孔子の一族の家系図は、ギネス世界記録で「最長の家系図」とされています。その改訂版が2009年にまとめられました。全80巻・約4万3000ページという大作です。
収められた人数は約200万人で、孔子から数えて83代目まで載っています。前回の1937年版は50万人台だったので、大きく増えたことがわかります。
※家系図の名前は『孔子世家譜(こうしせいかふ)』です
※人数やページ数は2009年版の家系図による数字で、ギネスの記録の数字ではありません
15. 直系の子孫は今も台湾に

孔子の本家筋の子孫には、1055年から「衍聖公」という爵位が代々与えられてきました。この称号は、のちに「大成至聖先師奉祀官」という官職に改められます。
77代目の孔徳成は、1949年に台湾へ移りました。現在は79代目の孔垂長が奉祀官を務めています。子孫は中国本土や韓国などにも大勢いますが、直系は台湾にいます。
※衍聖公(えんせいこう)、大成至聖先師奉祀官(たいせいしせいせんしほうしかん)、孔徳成(こうとくせい)、孔垂長(こうすいちょう)と読みます
※爵位(しゃくい)は家柄に応じた身分の称号、奉祀官(ほうしかん)は孔子の祭りをつかさどる役目です
まとめ
孔子は「丘」という名前の由来から背丈まで、生い立ちにも多くの記録が残る人物でした。若い頃は倉庫番や牧場番として地道に働き、50代半ばからは13年あまりも諸国を巡っています。
子路の最期に塩漬けを捨てさせた話や、顔回の死を嘆いた話からは、弟子を深く思う姿が見えてきます。孔子の言葉は弟子たちが『論語』にまとめ、「不惑」などの言い方として今も使われています。家系図に約200万人が載る子孫の存在も含め、約2500年前の人物が意外と身近に感じられるのではないでしょうか。
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更新日:2026年10月27日(火) 09:26

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