「皇帝」という呼び名は、ひとりの王が自分で考えて名乗ったものだと知っていましたか。その人物こそ、中国を初めて統一した秦の始皇帝です。
命を狙われた事件や不老不死の薬探し、さらには亡くなったあとの死の隠ぺいまで、その生涯には意外な話がたくさんあります。最近の発見から見えてきたこともあるのです。
そんな始皇帝にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
皇帝になるまでと若き日の危機
まずは出生をめぐる説や称号の誕生、命を狙われた事件など、若いころの話から見ていきます。
1. 本当の父は呂不韋という説

『史記』の秦始皇本紀は、始皇帝を荘襄王の子としています。ところが同じ『史記』の呂不韋列伝には、呂不韋が自分の子を宿した趙姫を荘襄王に差し出し、姫は妊娠を隠して政を産んだとあるのです。
後世には「呂政」と呼ぶ史書も現れました。一方で明の王世貞は敵国による中傷とみており、近代の郭沫若も否定的でした。
※政は始皇帝の名前です。王族の姓である嬴をとって嬴政とも呼ばれ、嬴は「えい」と読みます。
※呂不韋は「りょふい」、趙姫は「ちょうき」と読みます。父親については諸説あり、はっきりしていません。
2. 「皇帝」は自分で考えた称号

天下を統一した前221年、臣下は「泰皇」という称号を勧めました。王は「泰」を外して「皇」を残し、大昔の「帝」と合わせて「皇帝」としたのです。
昔から誰もが使っていた一人称「朕」も、天子だけの自称に変えました。死後に贈る諡は臣下が君主を評価することになるとして廃止し、自らを始皇帝と名乗っています。
※諡は「おくりな」と読み、亡くなった人に贈る呼び名のことです。
※「朕」は始皇帝が作った言葉ではなく、それ以前から使われていた一人称です。
3. 地図の巻物に隠された短剣

前227年、燕の刺客の荊軻は献上する地図の巻物を広げ、最後に現れた匕首で王に襲いかかりました。王の剣は長すぎてすぐには抜けず、柱の周りを逃げ回るしかありません。
殿上の家臣は武器を持てない決まりでした。侍医の夏無且が薬袋を投げつけて助けると、王は剣を背に回して抜き、荊軻の左の股を斬ったのです。
※荊軻は「けいか」、夏無且は「かむしょ」と読みます。
※匕首は短剣、侍医は王に仕える医者のことです。
巡幸の旅と権力者の素顔
天下を統一した始皇帝は、国内を見て回る巡幸に出ました。旅先での出来事や、権力者としての意外な一面を見ていきます。
4. 木に爵位を与え、山は丸坊主に

前219年、泰山を下りる途中で急な風雨にあった始皇帝は、木の下で休みました。そしてその木を「五大夫」という爵位に封じたのです。『史記』には「樹」とあるだけで、「五大夫松」は後世の呼び名でした。
同じ年、湘山祠の近くでは大風で川を渡れなくなりかけます。湘水の女神は堯の娘で舜の妻だと博士に聞くと、始皇帝は大いに怒りました。刑徒3000人に山の木をすべて伐らせ、山肌を赤くむき出しにさせています。
※巡幸は「じゅんこう」と読み、皇帝が各地を回る旅のことです。
※爵位は身分の位で、五大夫は秦の20等ある爵位の第9級です。
※刑徒は罰として働かされた人のことです。
※堯は「ぎょう」、舜は「しゅん」と読み、どちらも伝説上の王です。
※今ある五大夫松は後の時代に植え直されたもので、当時の木ではありません。
5. 鉄の槌が当たったのはお供の車

前218年、博浪沙を進む始皇帝の一行を、鉄の槌が襲いました。力士が投げた重さ約30kgの槌は、お供の車に当たったのです。
秦始皇本紀は「盗に驚かされた」と記すだけで、犯人は見つかりませんでした。10日間の大捜索のかいもなく、黒幕が張良だとわかるのは同じ『史記』の留侯世家です。
※博浪沙は「はくろうさ」と読みます。ここでの力士は、力の強い男のことです。
※槌の重さは原文では120斤で、約30kgにあたります。
※張良は韓の貴族の家に生まれ、のちに劉邦の軍師となる人物です。
6. 仕事の量ははかりで決めた

当時の文書は、竹や木の札に書いた竹簡や木簡でした。始皇帝は書類をはかりで量り、昼も夜も決めた量に届くまで休まなかったと『史記』にあります。
ただしこれは、前212年に始皇帝を批判して逃げた方士の言葉です。1日に約30kg分を目安にしたと解されることが多いものの、毎日その重さを読んだとまでは言えません。
※竹簡は「ちっかん」、木簡は「もっかん」と読みます。
※方士は不老不死の術などを説いた人たちです。
※原文の単位は1石で、約30kgにあたります。
7. 焚書坑儒で殺されたのは誰か

前212年、方士の侯生と盧生に批判されて逃げられた始皇帝は、禁を犯したとされる460人余りを咸陽で「坑」しました。いわゆる「坑儒」です。
ただ、犠牲者は儒者でなく方士が中心だったとみる研究者もいます。一方で長男の扶蘇が「みな孔子を学んでいる」と諫めた言葉もあり、儒者がいなかったとまでは言えないのです。
※「坑」は生き埋めではなく、処刑の意味だとする説もあります。焚書は書物を焼かせた政策のことです。
※扶蘇は「ふそ」と読みます。諫めるは、目上の人の過ちを注意することです。
不老不死の夢と死をめぐる謎
晩年の始皇帝は不老不死に強くこだわりました。その様子を伝える新しい発見と、死の前後に起きた不思議な出来事を見ていきます。
8. 不老不死の薬探しへの返事

2002年、湖南省の里耶にある古城跡の井戸から、秦代の木簡などが3万枚以上見つかりました。その中に各地へ不老不死の薬を探させる布告と、地方からの返事があったと2017年に報じられています。
遷陵県の都郷は「良い薬草はまだ見つからない」と答えました。琅邪は地元の霊山で採れた薬草を献上すると返しています。
※里耶は「りや」、琅邪は「ろうや」と読みます。
※返事の内容は研究者の解読によるものです。
出典:新華社(2017年)
9. 標高4306mの高原に残る石刻

青海省の扎陵湖の北岸、海抜4306mで見つかった石刻を、中国社会科学院の研究者が2025年に秦代の記録と発表しました。刻まれた37字には「皇帝」や「薬を採る」にあたる字句があり、年号は始皇帝が亡くなった前210年を示します。
偽物ではないかという指摘も出ましたが、同じ年に中国の国家文物局が秦代の刻石と認めました。
※年号は「卅七年」と刻まれ、始皇37年を指します。当初は「廿六年」と読まれ、のちに改められました。
※「崑崙へ薬を採りに来た」記録とみるのは研究者の解釈で、「崑」にあたる字は判読できていません。
出典:国家文物局(2025年)/中国社会科学院(2025年)
10. 「今年祖龍死す」という予言

前211年の秋、夜に華陰の道を通った使者の前に、璧を持つ人物が現れました。その人物は「今年祖龍死す」と告げ、璧を置いて消えたのです。
始皇帝は祖龍を人の先祖のことだとしましたが、調べるとその璧は8年前に自分が長江に沈めたものでした。占いに従って3万家を北へ移した翌年、始皇帝は旅の途中で世を去ります。
※璧は「へき」と読み、円盤の形をした玉のことです。
11. 遺体の臭いを魚でごまかす

前210年、始皇帝は巡幸の途中、沙丘の平台で亡くなりました。丞相の李斯らは天下が乱れるのを恐れて死を伏せ、遺体を轀涼車に乗せたまま旅を続けます。
『史記』によると、食事や報告もいつもどおり運ばせたそうです。暑さで臭いが漏れると、お供の車に約30kgの鮑魚を積ませて紛らわせました。
※丞相は皇帝を助ける最高位の大臣です。
※轀涼車は「おんりょうしゃ」と読み、窓を開け閉めして温度を調節できる車のことです。
※鮑魚は塩漬けにした臭いの強い魚で、アワビではありません。
※原文の量は1石で、約30kgにあたります。
※沙丘は今の河北省にあり、死因ははっきりしていません。
12. 遺言は書き換えられた?

『史記』では、宦官の趙高が李斯や末子の胡亥と組み、長男の扶蘇を呼び戻す遺書を握りつぶします。偽の詔で扶蘇に自害まで命じたのです。
ところが2009年に北京大学へ寄贈された竹簡『趙正書』には、始皇帝が胡亥の跡継ぎを認めたとあります。2013年に出土した二世皇帝の文書にも「遺詔を奉じて」とありますが、宣伝とみる研究者もおり議論が続いています。
※宦官は宮中に仕えた役人、詔は皇帝の命令のことです。
※胡亥は「こがい」と読みます。
※『趙正書』は寄贈されたもので、発掘された品ではありません。
まとめ
始皇帝は「皇帝」という称号を自分で考え、「朕」を天子だけの言葉にし、諡まで廃止した人物でした。自分の呼び名を、自分の手で決めたのです。
晩年には不老不死を求め、各地に薬を探させました。その記録は井戸の木簡や高原の石刻として、今に伝わっています。
亡くなったあとは死を隠され、遺体の臭いは魚でごまかされました。遺言が本物だったのかについても、今なお議論が続いています。新しい発見のたびに、はるか昔の皇帝の素顔が少しずつ見えてくるのは面白いところです。
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更新日:2026年10月19日(月) 09:30

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