江戸時代の握り寿司は、屋台で立ったまま気軽に食べるファストフードでした。しかも1つが今のおむすびほどの大きさで、シャリはほんのり山吹色だったとされます。
寿司のルーツは、魚を米で発酵させた保存食のなれずしです。やがて江戸の町で手早く食べられる握り寿司が生まれ、屋台から高級店まで広がっていきました。
そんな江戸の寿司にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
屋台で立ち食いのファストフード
江戸の寿司は、仕事の合間にさっと食べる庶民の味でした。まずは屋台での食べ方や値段、大きさから見ていきましょう。
1. 寿司は屋台で立って食べていた

独り身の男性が多い江戸では外食が発達し、寿司も屋台で立ったまま食べるのが一般的でした。幕末の記録である守貞謾稿には、繁華街では寿司と天ぷらの屋台がひとつの町内に3〜4軒もあったと記されています。
職人がカウンター越しに握って出す今の寿司屋の形は、この屋台の名残です。
※守貞謾稿は「もりさだまんこう」と読み、江戸と大坂の暮らしや風俗をまとめた本です。
出典:農林水産省/nippon.com
2. 屋台の握りは1つ8文だった

守貞謾稿によると、屋台の握りはおおむね1つ8文でした。今のお金に直すと、ひとつ100〜200円ほどという見方があり、手軽につまめる値段だったのです。
玉子巻だけは16文ほどと倍の値段で、これは当時の鶏卵が高級品だったためです。
※文は「もん」と読み、江戸時代のお金の単位です。円への換算は計算のしかたによって幅があります。
3. 握り寿司はおむすびほどの大きさ

江戸の握り寿司は、今のおむすびほどの大きさがあったとされます。シャリの量は今の2〜3倍ほどで、一口半からふた口でやっと食べきるサイズでした。
明治の後半から昭和にかけて少しずつ小さくなり、今のような一口サイズに落ち着いたのです。
※シャリの量は資料によって「2〜3倍」「3倍くらい」と幅があります。
出典:江戸東京博物館/ミツカン/農林水産省
4. 握り寿司の考案者は実は不明

握り寿司を考えた人として有名なのが、1824年(文政7年)に両国で店を開いた華屋与兵衛です。ただし正確な誕生時期は分かっておらず、遅くとも文政年間には生まれていたと見られています。
与兵衛は大成させた人物とする見方や堺屋松五郎を考案者とする説もあり、本当の生みの親ははっきりしません。
※華屋与兵衛は「はなやよへえ」、堺屋松五郎は「さかいやまつごろう」と読みます。
※文政年間は1818〜1831年です。
出典:ミツカン/国立国会図書館
シャリもネタも今とは別物
同じ握り寿司でも、江戸のものは見た目も味つけも今とはかなり違っていました。ここではシャリとネタの意外な姿を紹介します。
5. シャリは白ではなく山吹色

江戸の握り寿司のシャリは、酒粕から造る赤い粕酢の色でほんのり山吹色だったとされます。
ミツカンの創業者である中野又左衛門は、江戸で流行していた早ずしに目をつけて粕酢づくりに乗り出しました。1845年(弘化2年)ごろには最高級の粕酢「山吹」が生まれ、江戸の握りずし屋に広まりました。
※粕酢は「かすず」と読み、赤酢とも呼ばれます。米酢を使う店もありました。
出典:ミツカン
6. ネタには「仕事」がしてあった

江戸前の寿司職人は、ネタに「仕事」と呼ばれる下ごしらえをしていました。酢や昆布で締めたり、醤油に漬けたり、ゆでたり煮たりする技法です。
冷蔵庫のない時代に魚が傷むのを防ぐ工夫で、今も「江戸前の仕事」として寿司屋に受け継がれています。
※締めるとは、酢や塩などで魚の身を引き締めることです。
出典:江戸東京博物館/農林水産省
7. 江戸の定番ネタはコハダ

守貞謾稿に記されたネタには、卵焼きや車エビ、白魚にマグロの刺身やアナゴの甘煮などが並びます。
中でもコハダは、酢で締める江戸前の「締めもの」の代表格です。職人の腕が試されるネタとして、今も多くの寿司屋に並んでいます。
※コハダは、コノシロという魚の若いころの呼び名です。
出典:国立国会図書館/農林水産省
8. わさびは一部のネタだけに

守貞謾稿には、マグロの刺身やコハダなどにはシャリとネタの間にわさびを入れる、という記述があります。つまり、すべての寿司にわさびが入っていたわけではありません。
わさびには、魚のにおいを抑えたり食あたりを防いだりする役目があったとも言われます。
9. トロは客に出せない下品だった

今では高級ネタのトロも、江戸時代はお客には出せない「下品」の料理とされ、好まれたのは醤油に漬けた赤身でした。
脂の多い腹身は値段も安く、ネギと一緒に煮るねぎま鍋の具などに使われました。トロが好まれるようになったのは、冷蔵や冷凍の技術が広まった昭和に入ってからとされています。
※下品は「げぼん」と読み、格の低いものという意味です。
出典:農林水産省/国立国会図書館
江戸前の由来と高級寿司の行方
庶民の味だった寿司も、人気が高まるにつれて高級なものが登場します。最後は「江戸前」という言葉の由来と、ぜいたくな寿司のその後を紹介します。
10. 江戸前はもとはウナギの言葉

「江戸前」はもともと、江戸の目の前の海や川で獲れたウナギの蒲焼きを自慢する言葉でした。
平賀源内が1763年(宝暦13年)に書いた風流志道軒伝にも、「江戸前大樺焼」という言葉が出てきます。寿司に使われるようになったのは、その後に握り寿司の人気が高まってからのことです。
※風流志道軒伝は「ふうりゅうしどうけんでん」、大樺焼は「おおかばやき」と読みます。
出典:日本大百科全書(コトバンク)
11. 器ひとつで小判3両の松がすし

随筆の甲子夜話によると、深川の「松がすし」は5寸ほどの器に二重に盛った寿司が小判3両でした。作り手は味見をして、気に入らなければ惜しげもなく捨てたそうです。
幕末ごろなら今の価値で約20万円という試算もあり、屋台の8文の握りとは桁違いでした。
※甲子夜話は「かっしやわ」と読みます。
※5寸は約15cmで、3両は1貫ではなく器ひとつ分の値段です。
出典:ミツカン
12. 天保の改革で寿司屋が捕まった

1841年(天保12年)に始まった天保の改革では、老中の水野忠邦がぜいたくを厳しく取り締まりました。高価な料理を売ることも禁じられ、高い寿司を出した寿司屋が次々と捕らえられています。
有名店の与兵衛鮓や松がすしの主人まで処罰され、両手に鎖をかける手鎖の刑を受けたと伝わっています。
※老中は、江戸幕府で政治をまとめる最高の役職です。手鎖は「てぐさり」と読みます。
出典:コトバンク/ミツカン
まとめ
江戸の寿司は、屋台で立ったまま食べるファストフードとして庶民に親しまれました。大きさは今のおむすびほどあり、シャリは粕酢でほんのり山吹色に色づいていたとされます。
ネタには酢で締めたり煮たりする「仕事」がほどこされ、今では人気のトロも当時は格下の扱いでした。一方で器ひとつに小判3両という高級寿司も現れ、天保の改革では取り締まりの対象にもなっています。
今の寿司屋のカウンターや江戸前の技には、こうした江戸の屋台文化が受け継がれているのです。
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更新日:2026年10月19日(月) 09:33

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