ゴールまで54年かかったマラソンをご存じですか?走ったのは日本人初の五輪マラソン選手、金栗四三です。
箱根駅伝の生みの親で、大河ドラマ「いだてん」の主人公にもなりました。
そんな金栗四三にまつわる雑学を11個ご紹介します。
熊本の少年が世界に挑むまで
まずは名前の由来から、初マラソンで驚きのタイムを出すまでを見ていきましょう。
1. 四三という名前の由来は?

「四三」の名は、父の信彦が43歳のときに生まれたことに由来するといわれています。1914年に池部家の養子となり、本名は池部四三になりました。それでも競技では金栗の姓を使い続けたのです。
読み方は辞典によって「かなくり しそう」と「かなぐり しぞう」に分かれます。どちらが正しいかは、はっきりしていません。
2. 往復12kmのかけあし登校

金栗四三は子どものころ、体が弱かったと伝わっています。それでも玉名北高等小学校までの往復12kmを毎日走って通い、「かけあし登校」と呼ばれました。
体を鍛える習慣は大人になっても続きます。指導者になってからも真冬に冷水を浴び、乾布摩擦をしていたと教え子が証言しています。
※乾布摩擦:乾いた布で肌をこすって体を鍛える健康法
3. 初マラソンで出た驚きのタイム

金栗四三の初マラソンは1911年、羽田で開かれたオリンピックの予選会でした。足袋をはいて走り、2時間32分45秒でゴールしています。
これは当時の世界記録を27分も上回るタイムでした。ただし距離は約40kmとされ、計測には疑問が残るため、公認記録にはなっていません。
ゴールまで54年のマラソン
海を渡った金栗四三は、ストックホルム五輪のマラソンに挑みます。ここから、ゴールまで54年かかる不思議な物語が始まります。
4. ストックホルムで消えた日本人

1912年のストックホルム五輪のマラソンは、30度を超える暑さの中で行われ出走68人の約半数が棄権しました。ポルトガルのラザロ選手は倒れた翌日に亡くなり、五輪初の競技中の死者とされます。
金栗四三も26〜27km付近で意識がもうろうとなり、コースを外れました。地元のペトレ家で介抱され、飲み物とお菓子でもてなされたのです。
この縁は今も続き、2024年には熊本県玉名市の訪問団がペトレ家でもてなしを受けました。
※棄権:試合やレースを途中でやめること
出典:在スウェーデン日本国大使館/熊本日日新聞(2024年)
5. 記録が54年になったのはなぜ?

金栗は棄権が大会側に伝わらないまま帰国し、記録上は「行方不明」扱いになったとされます。
1967年のストックホルム五輪55周年の式典に招かれ、75歳の金栗四三はついにゴールテープを切りました。記録は54年8か月6日5時間32分20秒3で、ギネスでは「最も長い時間をかけたマラソン」と紹介されました。
ゴール後は「長い道のりでした。この間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」という趣旨を語りました。
※孫の人数は資料によって5人とするものもあります
出典:熊本県/ギネスワールドレコーズ(2019年)
6. 戦争で消えた全盛期の五輪

金栗四三は1914年ごろ、非公認ながら当時の世界記録を上回るタイムを出していたともいわれています。しかし次の1916年のベルリン五輪は、第一次世界大戦で中止になりました。
その次のアントワープ大会は16位、さらに次のパリ大会では32km地点で意識を失い棄権しています。3つの大会に出場して、完走は1回だけでした。
駅伝の父と呼ばれた理由
金栗四三は、日本に長距離走を広めることにも力を注ぎました。今では当たり前の駅伝も、彼と深いつながりがあります。
7. 日本初の駅伝でアンカーに

1917年に開かれた「東海道駅伝徒歩競走」は、日本最初の駅伝とされています。京都の三条大橋から東京の上野不忍池まで、約500kmを23区間でつなぐ大会でした。金栗四三は関東組のアンカーを務めました。「駅伝」の名は読売新聞の土岐善麿らが名づけたといわれます。
なお1913年には、御殿場口から富士山を駆け上がる登山競走が始まりました。発起人も金栗四三とされています。現在の富士吉田市の富士登山競走とは別の大会です。
※不忍池:しのばずのいけ
※土岐善麿:とき ぜんまろ
8. 箱根駅伝はもともと選考会

1919年に金栗らはアメリカ大陸を継走で横断する計画を立てます。その代表選考会として考えたのが箱根駅伝です。山の区間はロッキー越えを見すえたともいわれます。横断計画は後援者がつかず実現しませんでした。
初回は1920年、東京高師・早稲田・慶應・明治の4校で行われました。往路の最下位が箱根に着いたのは夜10時近くで、かがり火やたいまつで選手を照らしました。優勝は金栗の母校・東京高師で、2位の明治と25秒差でした。
※継走:何人かで区間をつないで走ること
※東京高師:東京高等師範学校の略。先生を育てるための学校
出典:笹川スポーツ財団/慶應義塾「三田評論」(2021年)
9. 生涯で走った距離は25万km

1919年の夏に金栗四三は教え子と下関から東京まで走りました。約1200kmの道のりを、約20日かけて走りきっています。ほかにも樺太から東京、九州一周なども走破したとされます。
生涯の走行距離は約25万kmといわれ、地球およそ6周分にあたる距離です。この途方もない数字は、彼の伝記の題名にもなりました。走ることを生涯続けた金栗四三は、1983年に92歳で亡くなっています。
※樺太:からふと。現在のロシア領サハリン
足袋とグリコに残る足あと
最後は、走るための道具や身近なお菓子に残る金栗四三の足あとを紹介します。
10. 金栗足袋が生んだ金メダル

金栗四三は、東京の足袋店ハリマヤの黒坂辛作と改良を重ねました。こうして生まれたのが、底にゴムを付けた「金栗足袋」です。
1936年のベルリン五輪では、孫基禎がこの足袋で走り金メダルを獲得しました。辛作は商品名に「カナグリ」を付けると約束し、のちに「カナグリシューズ」も作られています。
※黒坂辛作:くろさか しんさく
※孫基禎:ソン・ギジョン
11. グリコのマークのモデルは?

グリコの「ゴールインマーク」のモデルの一人は、金栗四三だといわれます。ただし江崎グリコによると、マークに具体的なモデルはいないそうです。
2代目のマークをデザインする際、金栗四三をはじめ当時活躍していた陸上選手の何人かを参考にしたとされており「金栗がモデル」とまでは言い切れないのです。
出典:江崎グリコ(2018年)
まとめ
金栗四三は、ストックホルムで姿を消してから54年あまりでゴールした記録の持ち主です。箱根駅伝を考え出し、足袋の改良にも取り組んで長距離走を広めた人でもあります。
その名は今も大会に残っています。福岡国際マラソンの前身は1947年の金栗賞朝日マラソンです。箱根駅伝では2004年から金栗四三杯が贈られています。
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更新日:2026年10月11日(日) 09:15

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