唐の雑学12選!長生きの薬で皇帝が5人死んだ

618年に建国された唐は、およそ300年にわたって続いた中国の王朝です。

都の長安には西方から商人や留学生が集まり、当時としては世界でも屈指の国際都市としてにぎわいました。

日本からも遣唐使が送られ、制度や文化の面で大きな影響を受けています。華やかなイメージのある唐ですが、実際には厳しい掟や意外な流行、そして権力をめぐる生々しい事件もありました。

そんな唐にまつわる雑学を12個ご紹介します。

1. 夜の長安は静まり返っていた

夜の長安は静まり返っていた

唐の都・長安では、日没に太鼓が400回鳴ると城門が閉じられ、さらに600回鳴ると坊と呼ばれる各区画の門も閉ざされました。

無断で夜道を歩くと法典『唐律疏議』の規定で笞(むち)20回の刑とされ、時代劇でおなじみの夜のにぎわいは、実際とは違っていたようです。

2. 進士は五十歳でも若手

進士は五十歳でも若手

官僚を選ぶ試験・科挙の中でも、進士科は合格率が1〜2%ほどで、毎年の合格者は20〜30人ほどという狭き門でした。

当時は「三十老明経、五十少進士」と言われ、比較的やさしい明経科に30歳で受かるのは遅い方、難関の進士科に50歳で受かればまだ若い方だとされたそうです。

3. 大雁塔に名を残す合格者

大雁塔に名を残す合格者

進士に合格した人たちが長安の大雁塔に登り、壁に自分の名前を書き残す雁塔題名という風習がありました。

774年に張莒という人が始めたという説があり、後に宰相にまで出世すると赤い字で書き直しに来たとも伝わりますが、今の塔に残る題名は明や清の時代のものです。

4. 皇帝たちが夢中になったポロ

皇帝たちが夢中になったポロ

西方から伝わった馬上球技のポロ(打毬)が唐で大流行し、中宗や玄宗、宣宗など歴代の皇帝の多くが熱中しました。

玄宗は皇太子のころ、4人のチームで吐蕃使節の10人チームを打ち破った逸話が残り、747年には打毬を軍の訓練に位置づける詔を出したとされています。

5. 女性が男装で街を歩く

女性が男装で街を歩く

唐の女性たちの間では、男性のような装いや西域風の胡服で街を出歩くのが流行しました。

細身のズボンに革のブーツという姿は唐三彩の人形や墓の壁画にも残されていますが、安史の乱の後は西方の文化への警戒が強まり、この流行は次第に下火になっていったと言われます。

6. 世界最古の印刷物は唐生まれ

世界最古の印刷物は唐生まれ

発行年が記された印刷物として現存する世界最古のものは、868年に木版で刷られた仏教の経典『金剛般若経』です。

敦煌の洞窟で見つかり、今はイギリスの大英図書館が所蔵していて、ヨーロッパのグーテンベルクの活版印刷より約600年も早い時期のものにあたります。

7. 三蔵法師は密出国だった

三蔵法師は密出国だった

『西遊記』の三蔵法師のモデルになった玄奘は、629年(627年とする説もあります)に出国の許可が下りないまま、国の禁を破って旅に出発しました。

約16年後に657部もの経典を持ち帰ると、時の皇帝の太宗は大いに歓迎し、無断で国を出た罪は問われなかったと伝わります。

8. 不老不死の薬で命を縮める

不老不死の薬で命を縮める

唐の皇帝たちは不老不死を願って丹薬という薬を飲みましたが、主な材料の丹砂は硫化水銀で、体に有害なものでした。

太宗、憲宗、穆宗、武宗、宣宗の5人がこの中毒で亡くなったとされ、6人以上とする説もあり、長生きを求めた薬が寿命を縮める結果になったようです。

9. 宦官が皇帝を決めた時代

宦官が皇帝を決めた時代

唐の後半は、宮廷に仕える宦官が皇帝を選ぶ時代でした。

穆宗から昭宗までの8人の皇帝のうち、宦官に担ぎ出されなかったのは敬宗ただ1人で、その敬宗も最後は宦官に殺されており、こうして即位した皇帝たちは宦官の教え子という意味で「門生天子」と呼ばれたそうです。

10. 嘘の吉兆で仕掛けた作戦

嘘の吉兆で仕掛けた作戦

835年、宦官の力を抑えたい文宗は「めでたい甘い露が降りた」という嘘の吉兆で宦官たちをおびき出し、まとめて討ち取ろうとしました。

ところが直前に計画が見破られて大失敗に終わり、甘露の変と呼ばれるこの事件の後、宦官の権力はかえって強まったと言われます。

11. 円仁が記録した仏教弾圧

円仁が記録した仏教弾圧

845年、皇帝の武宗は仏教を厳しく取り締まり、4600余りの寺を壊して26万人を超える僧や尼を強制的に俗人へと戻しました。

会昌の廃仏と呼ばれるこの出来事に居合わせた日本の僧・円仁は『入唐求法巡礼行記』に一部始終を書き残し、円仁自身も還俗を命じられています。

12. 唐で出世した日本人役人

唐で出世した日本人役人

遣唐使の一員として海を渡った阿倍仲麻呂は、外国人でありながら科挙の進士科に合格したと伝わります。

その後は皇室の図書館長にあたる秘書監や、南方を治める安南節度使まで務めましたが、日本へ帰る船は難破するなどして果たせず、そのまま唐で生涯を終えました。

更新日:2026年7月30日(木) 12:45

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