李白の雑学11選!月に溺れた最期は作り話

李白は、今からおよそ1300年前の中国・唐の時代に活躍した詩人です。

わき上がるような言葉の力から「詩仙」と呼ばれ、酒と月をこよなく愛した人物として知られています。

日本の教科書でもおなじみの「静夜思」をはじめ、その詩は千年をこえて今も広く親しまれてきました。

一方で、生まれた場所すらはっきりしないなど、その生涯には謎や伝説も数多く残されています。

そんな李白にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. 出生地は今も謎のまま

出生地は今も謎のまま

李白がどこで生まれたのかは、実は今もはっきりしていません。

有力な説の一つは中央アジアの砕葉、現在のキルギスのトクマク付近で生まれ、5歳前後で四川の蜀に移ったというものですが、蜀の綿州で生まれたとする説も根強く、どちらとも決着がついていないそうです。

2. 賀知章が金の亀を酒に換えた

賀知章が金の亀を酒に換えた

742年、42歳の李白の詩を読んだ80代の大物官僚・賀知章は、天から追放された仙人という意味の「謫仙人」と呼んで絶賛しました。

腰に下げた金の亀の飾りを外して酒代に換え、二人で飲み明かしたと伝わり、これを機に李白の名は長安で一気に知られていきました。

3. 靴を脱がせた話は創作か

靴を脱がせた話は創作か

酔った李白が宦官のトップだった高力士に靴を脱がせた、という有名な逸話があります。

ただしこの話は正史ではなく唐代の随筆『唐国史補』が初出で、後の書物で話がふくらみ、最後には正史の『新唐書』にまで入り込んだため、作り話の可能性が高いと指摘されています。

4. 若い頃は剣を振るう侠客

若い頃は剣を振るう侠客

李白と親しくしていた同時代人の魏顥は、序文に「少任侠、手刃数人」、つまり若い頃は任侠を好み自らの手で数人を斬った、と書き残しています。

剣術は唐で一番の剣客とされた裴旻に学んだとも言われますが、こちらは確かな記録がなく伝承の域を出ない話のようです。

5. 杜甫との友情に見える温度差

杜甫との友情に見える温度差

李白と杜甫が出会ったのは744年で、二人は11歳離れていました。

杜甫が李白を思って詠んだ詩は約15首も残っているのに対し、李白から杜甫へ贈った詩は確実なもので2首ほどしかなく、詩が散逸した可能性はあるものの残る数だけを見るとかなりの温度差があります。

6. 桃の花と酒屋に誘われて

桃の花と酒屋に誘われて

十里の桃の花と万軒の酒屋があります、という手紙に誘われて汪倫を訪ねたら、桃花は池の名前で、万家の酒屋は万さんの店1軒だった、という話が伝わっています。

ただし出典は約1000年後の清の『随園詩話補遺』で、汪倫は県令を務めた名士だったとする記録も残ります。

7. 死刑寸前から生まれた名作

死刑寸前から生まれた名作

安史の乱で永王李璘の幕僚となった李白は、757年に永王が敗死すると謀反に加わったとみなされて投獄されてしまいます。

夜郎、今の貴州への流罪となりましたが、759年春の大赦を白帝城のあたりで知り、その喜びを詠んだのが名作「早発白帝城」だと言われています。

8. 水面の月を掴んだ最期の話

酔って舟から水面の月を掴もうとして溺れた、という李白の最期は後世に広まった伝説です。

実際には762年に62歳で病没したとみられ、李陽冰の序文には病床で原稿を託した様子が記されており、晩唐の詩人が詠んだ「腐脅疾」から慢性の膿胸だったとする解釈もあります。

9. 直筆はわずか25文字だけ

直筆はわずか25文字だけ

数多くの詩を残した李白ですが、現存する唯一の真跡とされるのは草書で書かれた「上陽台帖」という作品です。

5行25文字という短いもので、現在は北京の故宮博物院に収蔵されていますが、本当に李白自身の筆によるものかどうかについては異論も出されているそうです。

10. 静夜思は日本と中国で違う

静夜思は日本と中国で違う

日本で習う「静夜思」は牀前月光を看る、頭を挙げて山月を望むという形ですが、中国で暗唱される形は明月光、明月を望むとなっていて本文が違います。

日本版は結果的に宋代の古い形を保っており、中国の現行版は明代以降に整えられ『唐詩三百首』で定着しました。

11. 日本人留学生に贈った追悼詩

日本人留学生に贈った追悼詩

日本から唐に渡った留学生の阿倍仲麻呂が、753年の帰国の航海で遭難したという誤報が流れました。

それを聞いた李白は追悼の詩「哭晁卿衡」を詠みましたが、実際の仲麻呂はベトナムに漂着して生きており、生前に自分の追悼詩を詠まれた稀有な日本人となりました。

更新日:2026年7月29日(水) 05:54

コメントを入力

TOP