もし今年の12月が、2日で終わってしまったらどうでしょう。明治5年の日本では、本当にそんなことが起きました。
1872年(明治5年)、政府はそれまでの旧暦をやめ、今と同じ太陽暦に切り替えることを決めます。発表から実施までわずか23日という急な改暦で、役人の給料や時刻の数え方、休日の決まりまで変わりました。
そんな明治の改暦にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
12月が消えた改暦の舞台裏
まずは、12月が消えた経緯と、急な切り替えの裏で起きた出来事を見ていきましょう。
1. 明治5年の12月はたった2日

明治5年の12月は、たった2日で終わりました。旧暦である天保暦の12月2日の翌日を、いきなり新年の元日にしたためです。
こうして1873年(明治6年)1月1日から、日本でも太陽暦が使われ始めました。国立科学博物館は、20日以上を飛ばして新しい年にしたと説明しています。
※「天保暦(てんぽうれき)」は、改暦の前まで使われていた旧暦の名前です
※「太陽暦」は、今わたしたちが使っている暦のことです
出典:国立科学博物館
2. 12月分の給料が出なかった役人

改暦で損をしたのは、月給をもらう役人たちでした。この年の12月は2日しかないとして、政府はひと月分の月給を払わなかったのです。
天保暦のままなら明治6年は閏月が入り、13か月の年になる予定でした。大隈重信の回想によると、13回目の月給を節約することも改暦の理由の1つだったといいます。
※「閏月(うるうづき)」は、旧暦で季節とのずれを直すために足された1か月のことです
出典:国立科学博物館
3. 23日後の改暦に泣いた暦の版元

改暦が布告されたのは、旧暦の明治5年11月9日でした。その年の12月3日を新しい年の元日にするという内容で、実施までわずか23日しかありません。
困ったのは暦の版元です。版元の組合である頒暦商社は、天保暦で作った翌年の暦をすでに売り出しており、大損害を受けました。政府は埋め合わせに暦の専売を認め、太陽暦の暦の売れ行きが悪かったため、その期間をさらに5年延ばしています。
※「布告(ふこく)」は、政府が法令を国民に広く知らせることです
※ここに出てくる日付は、どちらも旧暦の日付です
※「版元(はんもと)」は暦や本を作って売る店、「頒暦商社(はんれきしょうしゃ)」はその組合のことです
※「専売(せんばい)」は、決まった者だけに売ることを認める仕組みです
出典:国立天文台
4. 福沢諭吉の『改暦弁』が大ヒット

政府は、暦を変える理由をほとんど説明しませんでした。そこで福沢諭吉がすぐに出したのが、太陽暦を解説した『改暦弁』です。20ページあまりの小冊子でしたが、10万部以上売れたとも言われています。
本人の回想によると、風邪で寝込んだまま筆をとり、6時間ほどで書き上げました。発売から2〜3か月で700円余りの利益が出て、本人も驚いたと振り返っています。
※売れた部数は資料によって違います
5. 詔書が誇った7000年で1日

改暦の詔書は、太陽暦の正確さを強調しています。閏年を置くしくみなら、7000年後でもずれは1日だけだというのです。実際には、今の暦でも3000年あまりで約1日ずれます。
しかも布告は閏年を4年ごととしただけで、100年や400年ごとの例外がありませんでした。これでは1900年(明治33年)も閏年になるため、1898年(明治31年)の勅令で改めました。
※「詔書(しょうしょ)」は、天皇の言葉として出された文書です
※「勅令(ちょくれい)」は、天皇の命令として出された法令です
出典:国立天文台
時刻と休日も新しくなった
改暦で変わったのは、日付だけではありません。時刻の呼び方や役所の休日にも、新しい決まりが生まれています。
6. 不定時法から午前・午後の時刻へ

改暦の布告では、時刻の数え方も変わりました。それまでは昼と夜をそれぞれ6つに分ける不定時法で、季節によって一刻の長さが伸び縮みしていました。
1873年(明治6年)からは、長さが一定の定時法に変わります。真夜中から正午までを12に分けて「午前何時」、正午から真夜中までを同じく12に分けて「午後何時」と呼ぶ決まりです。
※「不定時法(ふていじほう)」は季節で時間の長さが変わる数え方、「定時法(ていじほう)」はいつも同じ長さで数える方法です
※「一刻(いっこく)」は、昔の時間の単位です
出典:国立天文台/総務省統計図書館
7. 法律に「午後0時」はない

改暦の布告には、時刻の呼び方を示した表が添えられていました。この表では、正午は「午前12時」とだけ書かれています。
真夜中には「午前0時」と「午後12時」の両方が載っていますが、正午を「午後0時」とする書き方はありません。国立天文台によると、法律の上では「午後0時」という呼び方は存在しないことになるのです。
出典:国立天文台
8. 「31日は休みではない」の通達

明治の初め、役所は1と6のつく日を休日にしていました。明治元年に定められた決まりで、一六日休みと呼ばれました。
ところが太陽暦になると、31日のある月が出てきます。そのままでは、31日と翌月1日が続けて休みになってしまいます。そこで1873年(明治6年)、太政官が「31日は休暇ではない」と通達を出しました。
※「一六日(いちろくび)」は、1と6のつく日のことです
※「太政官(だじょうかん)」は、明治の初めに置かれた政府の最高機関です
※「通達(つうたつ)」は、役所が出す指示や知らせのことです
出典:国立天文台
9. 日曜休みは改暦の3年後から

日曜休みは、いつから始まったのでしょうか。改暦後も役所の休日は一六日のままで、官庁が日曜休みにしたのは1876年(明治9年)4月からです。
同時に土曜日は半日休みとなり、「半ドン」と呼ばれました。ドンはオランダ語の日曜日「ゾンターク」がなまった「どんたく」が語源とされます。正午に撃つ大砲の音が由来とする説もあります。
出典:国立天文台
暦のずれが残したもの
旧暦から新暦への切り替えは、祝日や行事の日付にも影響を残しました。ここでは、暦のずれにまつわる話を紹介します。
10. 明治天皇の誕生日が11月3日に

明治天皇の誕生日は、天長節という祝日として祝われていました。明治元年に定められたときの日付は、旧暦の9月22日です。
改暦によって、1873年(明治6年)からは日付を新暦に直して祝うことになります。こうして決まったのが11月3日でした。この日は昭和に入って明治節となり、戦後は今の文化の日になっています。
※「天長節(てんちょうせつ)」は天皇の誕生日を祝う祝日で、今の天皇誕生日にあたります
11. 37年間カレンダーに残った旧暦

急な切り替えによる混乱を避けるため、改暦直後の暦には旧暦の日付も並べて載せられました。政府は一度、翌年からは旧暦を載せないと決めましたが、実際には両方を載せる形が続きます。
旧暦の日付が載ったのは、1909年(明治42年)の暦までです。改暦から37年分の暦に、旧暦の日付が残り続けました。
出典:国立天文台
12. 旧暦と新暦は何日ずれる?

旧暦と今の暦では、同じ日付でもおよそ20〜50日ずれます。たとえば1871年(明治4年)の旧暦の元日は、今の暦の2月19日にあたります。
改暦のとき、多くの行事は日付をそのまま新暦に移しました。そのため7月7日の七夕は、梅雨のさなかになることが多くなったのです。国立天文台は、旧暦にもとづく「伝統的七夕」も紹介しています。
※ずれの日数は年によって変わります
出典:国立天文台/船橋市
まとめ
明治の改暦では、明治5年の12月がたった2日で終わり、いきなり新しい年が始まりました。発表から実施までは23日しかなく、暦の版元が大損害を受けたほか、役人には12月分の月給が支払われていません。
変わったのは日付だけではありません。昼と夜を6つずつに分けていた時刻は「午前・午後」の数え方になり、休日の決まりも少しずつ今の形に近づいていきました。
一方で旧暦の日付は、その後も37年分の暦に載り続けています。七夕や文化の日の由来をたどると、明治の改暦の名残が見えてきます。
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更新日:2026年10月21日(水) 11:46

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