世界最古の長編小説『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、平安時代中期の学者である藤原為時の娘として生まれ、幼い頃から父親が驚くほど漢文を読みこなすなど並外れた才能を発揮していました。
20代で結婚するも夫と早くに死別し、その深い悲しみを癒やすために物語を書き始めたと言われています。
後にその文才を買われ、最高権力者であった藤原道長の娘に仕えました。今回は、そんな天才女流作家の意外な一面がわかる雑学を11個ご紹介します。
1. 紫式部の本名は今でも分かっていない

歴史に名を残す世界で最も有名な日本の女性作家である紫式部ですが、実は彼女の本当の名前は現在も全く判明していません。
当時の平安時代の貴族社会では女性が本名を公にすることはタブーとされており、公的な記録にも一切残されなかったからだそうです。
2. 「紫式部」という名前の意外な由来

「式部」という名前の後半部分は、父親である藤原為時が式部省という役所の役人を務めていたことに由来していると言われています。
前半の「紫」という文字は、彼女が執筆した『源氏物語』に登場するヒロインの紫の上から、後から付けられたという説が有力とされています。
3. 兄より優秀で父親に嘆かれた

彼女は幼い頃から大変頭が良く、父親が兄に向けて漢文を教えているのを横で聞いているだけで、兄よりも先に全て暗記してしまいました。
しかし当時の学問は男性が学ぶものとされていたため、優秀な彼女を見た父親は「この子が男であったらよかったのに」と嘆きました。
4. 清少納言とは面識がなかった

『紫式部日記』の中で清少納言を痛烈に批判しているため、2人は犬猿の仲で直接対立していたという強い印象を持たれがちです。
しかし紫式部が宮中に出仕したのは清少納言が去った数年後のことなので、実際には1度も直接顔を合わせたことがなかったとされています。
5. 「いわし」が大好物

平安時代の貴族たちは魚や鳥などを食べましたが、いわしのような下等とされる魚を食べるのは非常に品がない行動とされていました。
しかし紫式部はどうしてもいわしが食べたかったらしく、夫が不在の時に人目を忍んでこっそりと焼いて食べていたという記録が残されています。
6. いじめで引きこもりになった

その豊かな才能を見込まれて宮中へとスカウトされますが、新参者で『源氏物語』の作者として目立っていた彼女は周囲の嫉妬を買いました。
先輩の女房たちから冷たく無視されるなどの陰湿ないじめを受けてしまい、精神的に疲弊して一時、実家に引きこもってしまいました。
7. 源氏物語を書くきっかけは夫との死別だった

彼女は20歳以上も年の離れた夫・藤原宣孝と結婚して娘を出産しますが、わずか3年ほどで夫が当時の流行病にかかって急死してしまいます。
最愛の夫を失った深い悲しみと孤独を少しでも紛らわせるために、『源氏物語』の執筆を始めたのがきっかけだと言われています。
8. 藤原道長の愛人だったという噂がある

スカウトした最高権力者の藤原道長ですが、『紫式部日記』には夜中に彼が部屋の戸を叩いてきたという記述が残されています。
日記では戸を開けなかったと書いていますが、特別な支援を受けていたことから2人は愛人関係にあったと推測する研究者もいるそうです。
9. 同僚にも辛口評価だった

同僚の女流作家たちにも厳しく、恋多き和泉式部に対しては「才能はあるが素行が悪い」と非常に冷静で客観的な評価を下しています。
赤染衛門に対しても「立派な歌詠みであるが最高レベルというわけではない」と、相手を的確に観察した上での容赦のない鋭い批評を残しました。
10. 実は陰キャで自己評価が低かった

華麗な宮中を舞台にした物語を書きましたが、紫式部自身の性格は極めて内向的であり物事をネガティブに捉えがちでした。
日記には「私なんてどうせ憂き世に浮かぶ水鳥のようなものだ」という自虐や、周囲の人と馴染めないという孤独感がたくさん綴られています。
11. 紫式部日記は「愚痴ブログ」

『紫式部日記』の前半は主の出産記録という公式レポートですが、後半は宮中の人間関係の悩みや自身のコンプレックスに満ちています。
同僚への容赦のないダメ出しや日々の不満などが赤裸々に書かれた内容は、現代の「愚痴ブログ」や裏アカウントに非常によく似ています。
更新日:2026年5月9日(土) 12:16

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