「漢民族」の「漢」は、昔の中国の王朝の名前から来ています。その漢王朝を開いたのが、劉邦という人物です。農民の家に生まれ、若い頃は酒好きのお調子者だった男が、なぜ皇帝にまでなれたのでしょうか。
劉邦は、ライバルの項羽に何度も敗れながら、最後には天下を取りました。その歩みには、酒場のツケやはったりなど、型破りで人間くさい話がたくさん残っています。
そんな劉邦にまつわる雑学を12個ご紹介します。
若き日の型破りな劉邦
まずは、皇帝になる前の劉邦の素顔から見ていきましょう。
1. 農民の家から皇帝になった男

劉邦は、庶民の出身で皇帝になった最初の人物とされています。皇帝という呼び名は始皇帝が始めたばかりで、それまでの皇帝は秦の王族だけだったからです。
生まれは沛県豊邑の中流の農家で、壮年になって役人となり、泗水の亭長を務めました。そこから紀元前202年に、皇帝の位にまでのぼりつめました。
※沛県豊邑(はいけんほうゆう)は、今の江蘇省にあたります
※泗水(しすい)の亭長(ていちょう)は、宿場と治安を受け持つ下級役人です
2. 左の太ももに72個のほくろ

劉邦の左の太ももには、72個の黒いほくろがあったと史記に記されています。鼻が高く竜のような顔立ちで、ひげも立派だったそうです。
母が竜と出会って劉邦を産んだという伝説も、同じ史記に残っています。72という数に司馬遷は意味をつけていませんが、のちの唐の時代の注釈では、帝王のしるしと解釈されたともいいます。
※史記(しき)は、劉邦の時代を記した中国の歴史書です
※司馬遷(しばせん)は、史記を書いた歴史家です
3. 始皇帝を見て漏らしたひと言

始皇帝の姿を見た若き劉邦は、深くため息をついて「ああ、一人前の男ならこうなるべきだ」と言いました。労役で都の咸陽へ行ったとき、見物を許された場で目にしたのです。
同じく始皇帝を見た項羽は「あいつに取って代わってやる」と言いました。2人の言葉は、性格の違いを表すものとしてよく比べられます。
※大丈夫(だいじょうぶ)は、ここでは一人前の立派な男という意味です
※労役(ろうえき)は国に命じられて働く務め、咸陽は「かんよう」と読みます
4. 酒屋がツケを帳消しにした

劉邦が通う2軒の酒屋は、年末になるとツケの証文を折って帳消しにしていました。酒と女性が好きな劉邦は、王ばあさんと武ばあさんの店で、いつもツケで飲んでいたのです。
酔って寝ている劉邦の上に、2人はいつも竜を見たと史記にあります。劉邦が来ると売り上げも数倍になったため、店のほうから帳消しにしたのでした。
※証文は、ツケの額を記した木の札(割り符)のことです
※王ばあさん・武ばあさんは、史記で王媼(おうおう)・武負(ぶふ)と書かれる女性です
5. 一銭もないのに祝い金1万銭

劉邦は一銭もないのに、名札に「お祝い1万銭」と書いて上座に通されました。宴の主は沛に移った有力者の呂公で、受付役はのちに漢の重臣となる蕭何でした。
祝い金が1000銭に満たない客は堂の下に座る決まりでしたが、呂公は驚いて門まで迎え、人相を見て上座に招いたのです。
蕭何は「劉季は大きなことを言うばかりで、やり遂げることは少ない」と言いましたが、呂公は娘の呂雉を劉邦に嫁がせました。この娘が、のちの呂后です。
※劉季(りゅうき)は、劉邦の若い頃の呼び名です
※呂公は「りょこう」、蕭何は「しょうか」、呂雉は「りょち」、呂后は「りょこう」と読みます
天下取りへの道と決断
秦の終わりに兵を挙げた劉邦は、やがて項羽と天下を争います。その途中で見せた意外な素顔を紹介します。
6. 儒者の冠に小便をした

劉邦は儒者が嫌いで、儒者の冠をかぶった客が来ると、冠を取ってその中に小便をしたと史記に書かれています。これは、ある騎士が酈食其に語った言葉です。
その酈食其と会ったとき、劉邦は女性2人に足を洗わせたまま応対しました。酈食其が無礼をとがめると、劉邦は足洗いをやめて身なりを整え、上座に招いてわびました。
※儒者(じゅしゃ)は、孔子の教えを学ぶ学者です
※酈食其は「れきいき」と読みます
7. 法律を3つだけにした「法三章」

紀元前206年、劉邦は秦の厳しい法律をやめ、決まりをたった3つにすると約束しました。秦が降伏したあと、関中の長老たちを集めて伝えたのです。
3つとは「人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と盗んだ者はそれに応じて罰する」です。秦の人々は大いに喜び、中国語の「約法三章」という言葉も、この話から生まれました。
※関中(かんちゅう)は、秦の都があった一帯です
※約法三章は「あらかじめ取り決めをする」という意味の言葉です
8. 馬車からわが子を突き落とした

なんと劉邦は逃げる馬車から、わが子を何度も突き落としていました。項羽軍の騎兵に追われる途中、あわてた劉邦は、息子と娘を車の外へ落としたのです。
そのたびに御者の夏侯嬰が車を降り、2人を拾い上げて乗せました。史記の項羽本紀には、こうしたことが3回あったと書かれています。
夏侯嬰の伝では、怒った劉邦が夏侯嬰を斬ろうとしたことが10回あまりあったとされます。助けられた息子は、のちに2代皇帝の恵帝になりました。
※夏侯嬰(かこうえい)は、劉邦の馬車を操った家臣です
※娘は魯元公主(ろげんこうしゅ)、恵帝は「けいてい」と読みます
9. 張良・蕭何・韓信にかなわない

皇帝になった紀元前202年、劉邦は洛陽の宴で天下を取れた理由を家臣に問い、自ら答えました。自分は張良・蕭何・韓信の3人にかなわない、というのです。
作戦を立てることでは張良に、国を治めて兵糧を絶やさないことでは蕭何に、大軍で勝つことでは韓信に及ばない。それでも3人を使いこなせたから天下を取れた、と語りました。
項羽は軍師の范増1人さえ使えなかった、とも続けています。3人はのちに「漢の三傑」と呼ばれました。
※張良は「ちょうりょう」、韓信は「かんしん」、范増は「はんぞう」と読みます
皇帝になってからの劉邦
天下を取ったあとも、劉邦の悩みや危機は続きました。最後に、皇帝としての劉邦の姿を見ていきます。
10. 憎い家臣から先に取り立てた

劉邦は、いちばん憎んでいた雍歯を、真っ先に侯に取り立てました。恩賞が決まらず不安になった家臣たちが、反乱を相談していると張良が伝えたためです。
雍歯は昔からの仲間でしたが、故郷を敵に渡すなど劉邦を何度も苦しめた人物でした。張良の進言で雍歯が侯になると、家臣たちは「雍歯でさえ侯になれた」と安心しました。
※雍歯は「ようし」と読みます
※侯(こう)は、領地を与えられた身分の高い家臣です
11. 匈奴の大軍に7日間囲まれた

紀元前200年、劉邦は北の遊牧国家・匈奴の大軍に、白登山で7日間も包囲されました。匈奴を攻めたものの、冒頓単于の作戦にかかったのです。
囲んだ兵は史記では40万騎、漢書では30万余騎とされます。内と外の漢軍は助け合えず、食料も届きませんでした。最後は陳平の策で冒頓の妻に使者を送り、包囲が解けました。
※匈奴は「きょうど」、冒頓単于は「ぼくとつぜんう」と読み、単于は匈奴の君主の呼び名です
※陳平(ちんぺい)は、劉邦の家臣です
※策の中身は秘密にされ、世に伝わらなかったと史記に書かれています
12. 矢傷が悪化しても医者を断った

反乱を起こした英布を討った際に流れ矢を受け、帰り道で病が重くなった劉邦は矢傷が悪化しても、医者の治療を断りました。
「治せます」と言う名医を、劉邦は「わしは庶民の身で3尺の剣を手に天下を取った。命は天にある」とののしりました。そして金50斤を与えて、帰らせました。亡くなったのは矢傷を受けた半年ほど後の紀元前195年です。
※英布(えいふ)は、黥布(げいふ)とも呼ばれる武将です
※3尺は約70cmで、1mに満たない剣を指します
まとめ
劉邦はツケを帳消しにしてもらったり、一銭もないのに「1万銭」と書いたりと、若い頃から不思議と人を引きつける人物でした。皇帝になってからは、張良・蕭何・韓信を使いこなせたことが天下を取れた理由だと、自ら語っています。
最期は医者を断り、命は天にあると言い切りました。
国号の「漢」は、劉邦が漢中などを治める漢王になったことに由来します。この名は「漢民族」などの呼び名に今も残っています。日本では、司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』でも知られる人物です。
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更新日:2026年11月6日(金) 01:52

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