紫禁城には「部屋が9999間半ある」という話を聞いたことはありますか。実はこれは伝説で、実際に数えた結果は別の数字でした。
北京の中心に建つ紫禁城は、明と清の皇帝たちが暮らした宮殿です。巨大な石を氷の上で運んだ工夫や皇帝の意外な食事の回数、宮殿の中を自転車で走った最後の皇帝など、知るほど面白い話が残っています。
そんな紫禁城にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
建物と名前にかくされた工夫
まずは、紫禁城という建物そのものにまつわる話です。名前の由来から建て方まで、順に見ていきましょう。
1. 「9999間半」の部屋の真実

民間には「天帝の宮殿は1万間なので、皇帝はそれを超えないよう9999間半にした」という伝説があります。しかし故宮博物院が2012年に数え直したところ、結果は9371間でした。1973年の測量では8707間で、数字は数え方によって変わります。
そもそも「間」は部屋の数ではなく、4本の柱で囲まれた空間を数える単位です。故宮博物院の研究員の周乾は、古い建築に「半間」という考え方はないとして、9999間半の説を否定しています。
※天帝:天の世界を治める神
※「間」はここでは「けん」と読みます。
※周乾(しゅう・けん)
出典:故宮博物院(2012年)/光明日報(2026年)
2. 「紫」の由来は夜空の星

紫禁城の「紫」は建物の色ではなく、北極星のまわりの星の領域「紫微垣」に由来します。天帝が住むとされたこの星域に、地上の皇帝の住まいをなぞらえたのです。
「禁」は一般の人が近づけない場所という意味で、実際の壁は赤く、瓦は黄色です。「故宮」は、1925年に故宮博物院となってからの呼び名です。
※紫微垣(しびえん)
3. 巨石を運んだ「氷の道」

紫禁城の巨大な石材は、冬に作った氷の道の上を、木のそりに載せて運ばれました。およそ500mおきに井戸を掘り、その水をまいて凍らせたのです。史料には、1557年に123トンの石を運んだ記録があります。距離は70km以上、日数は約28日でした。
プリンストン大学などの研究チームが2013年に発表した計算では、この石を乾いた地面で引くには1537人が必要です。ところが水をまいた氷の上なら、46人ほどで引ける計算になります。
出典:米国科学アカデミー紀要(2013年)
4. 屋根に並ぶ動物で格がわかる

屋根の先に並ぶ小さな動物の像「脊獣」は、数が多いほど建物の格が高いしるしです。10体そろうのは太和殿だけとされ、皇帝の住まいの乾清宮は9体です。
10番目は翼のある猿のような姿の「行什」で、雷よけの意味をもつといいます。先頭には鳳凰に乗った仙人もいて、これを数に入れないため実際の像は11体です。
※脊獣(せきじゅう)
※行什(こうじゅう)
※太和殿(たいわでん)、乾清宮(けんせいきゅう)
5. なぜ大雨でも水がたまらない?

紫禁城は大雨が降っても、地面に水がたまりにくい造りです。2023年の北京の大雨でも、ほとんど水がたまらなかったと報じられました。
北の神武門は南の午門より約2m高く、水は自然に南へ流れます。三大殿の土台には龍の頭の形をした排水口が1142個あり、大雨の日には一斉に水を吐く「千龍吐水」が見られるのです。
※三大殿:太和殿など3つの大きな宮殿
※千龍吐水(せんりゅうとすい)
※神武門(しんぶもん)、午門(ごもん)
出典:澎湃新聞(2023年)
皇帝と宮廷の人々の暮らし
ここからは、紫禁城で暮らした皇帝や宮中の人々の話です。
6. 額の裏に隠された跡継ぎの名

清の雍正帝は1723年、次の皇帝の名を密封して乾清宮の「正大光明」の額の裏に置くと、大臣たちに告げました。もう1通は手元に置いています。
背景には、父の康熙帝の晩年に起きた皇子たちの激しい跡継ぎ争いがありました。この方式で乾隆帝など4人が即位しましたが、男子が1人だけだった咸豊帝の後は使われなくなります。
※この方式は「秘密立儲(ひみつりっちょ)」と呼ばれます。
※雍正帝(ようせいてい)
7. 皇帝の食事は1日2回だった

清の皇帝の正式な食事は、早膳と晩膳の1日2回でした。晩膳は午後2時前後で、今の感覚でいえば昼食の時間です。
食事のあいだには、点心などの軽食や夜食がとられました。1765年正月の乾隆帝の記録では、早膳だけで11品が並んでいます。こうした習慣は、満州族など北方の暮らしに由来するとされます。
※早膳(そうぜん):朝食
※晩膳(ばんぜん):夕食にあたる食事
※点心(てんしん):軽い食べ物やお菓子
出典:澎湃新聞(中国第一歴史档案館の記録より)
8. 宮中には猫の係があった

明の宮中には猫の世話をする「猫児房」という部署があり、宦官が担当しました。名前のついた猫は、役人のように「管事」と呼ばれていました。
猫好きの嘉靖帝は、愛猫の霜眉が死ぬと金の棺に入れ、今の景山のふもとに葬ったそうです。もとはネズミ対策で飼われた猫で、今も約200匹が故宮に住むと2025年に報じられました。
※猫児房(びょうじぼう)
※宦官(かんがん):皇帝に仕えた男性の役人
※管事(かんじ)
※霜眉(そうび)
出典:Global Times(2025年)
9. 井戸に消えた皇帝の愛妃

光緒帝に愛された珍妃は1900年、宦官の手で井戸に落とされて亡くなったとされます。外国の連合軍が北京に迫り、西太后が逃げ出す直前でした。
西太后の命令という話は、宦官の崔玉貴が後年に語ったもの。自ら身を投げた説もあり、経緯は諸説あります。今も残る「珍妃井」の口は、人が落ちないよう狭く改修されています。
※珍妃(ちんぴ)、光緒帝(こうしょてい)
※崔玉貴(さいぎょくき)
最後の皇帝と故宮のその後
締めくくりは、清の最後の皇帝・溥儀と、宮殿が博物館になってからの話です。
10. 玉座で泣いた幼い皇帝

1908年、満2歳の溥儀が清の皇帝に即位しました。ところが式の最中、太和殿の玉座で泣き出し、「家に帰りたい」と叫んだのです。
溥儀の自伝『わが半生』によると、父の載灃はひざをついて支え「泣くな、もうすぐ終わる」となだめました。約3年後に清が滅んだため、この言葉は不吉な予言だったと言われました。
※満2歳は、数え年では3歳です。
※溥儀(ふぎ)、載灃(さいほう)
※玉座:皇帝が座る席
11. 自転車のために切られた敷居

溥儀は自転車に夢中になり、宮殿の中を走りやすくするため、通り道の門の敷居を切らせました。切った敷居は30か所以上、宮中の自転車は20台以上あったとされます。
最初の自転車は、いとこの溥佳が1922年の結婚祝いに贈ったものと伝わっています。敷居を切ろうと言い出したのは義弟の潤麒で、本人が晩年にそう語りました。
※敷居(しきい):門や戸の下にある横木
※溥佳(ふか)、潤麒(じゅんき)
12. 「故宮」が2つある理由

1924年に溥儀が紫禁城を追い出され、翌年には故宮博物院が開館しました。1933年、日本軍が北京に迫ると、宝物を南へ避難させる大移動が始まります。運んだ箱は1万9000箱あまりで、上海・南京・四川などを十数年にわたって移りながら、ほとんど失われませんでした。
その後の内戦の末期には、2972箱が台湾へ運ばれます。これが台北の国立故宮博物院の中心となりました。北京と台北に「故宮」が2つあるのは、このためです。
出典:中国日報(2024年)
まとめ
紫禁城の「紫」は建物の色ではなく、天帝が住むとされた星の領域に由来する名前でした。「9999間半」という部屋数は伝説で、実際の数字は数え方によって変わります。
建物には、氷の道で巨石を運んだ工夫や、大雨でも水がたまりにくい仕組みがありました。宮中では皇帝の食事が1日2回だったり、猫の世話をする部署があったりと、今とは違う暮らしが営まれていたのです。
宮殿が博物館になった後、宝物は戦争を避けて長い旅をしました。北京と台北に2つの「故宮」があるのは、その旅の結果です。
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更新日:2026年10月31日(土) 11:38

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