項羽の雑学12選!秦を倒した覇王は大の勉強嫌いだった

「四面楚歌」という言葉の主人公が、30歳ほどで自ら命を絶った武将だと知っていましたか。秦を滅ぼして天下の頂点に立った項羽は、数えで31歳という若さで最期を迎えました。

項羽は楚の国の将軍の家に生まれ、戦ではほとんど負け知らずだった人物です。それでも最後に天下を取ったのは、ライバルの劉邦でした。

そんな項羽にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

若き日の項羽と意外な人柄

のちに力で諸国を従える「覇王」を名乗った項羽ですが、若い頃は勉強より大きな野心が目立つ若者でした。まずは人柄が見える3つの話からご紹介します。

1. 読み書きも剣術も続かない

読み書きも剣術も続かないのイラスト

若い頃の項羽は、読み書きも剣術も長続きしませんでした。叱った叔父の項梁に「字は名前が書ければ十分。剣は1人を相手にするだけで学ぶ価値がない。学ぶなら万人を相手にする術だ」と答えたと、史記に記されています。

喜んだ項梁が兵法を教えても、項羽は大まかな意味をつかむと、それ以上は学ぼうとしませんでした。

※項梁は「こうりょう」と読みます
※史記(しき)は、項羽や劉邦の時代を記した中国の歴史書です

2. 始皇帝の行列を見て放った一言

始皇帝の行列を見て放った一言のイラスト

始皇帝が会稽を訪れたとき、項梁と項羽はその行列を見物していました。項羽は「彼、取って代わるべし」、つまり「あいつに取って代わってやる」と口にします。

項梁はあわてて口をふさぎ、「でたらめを言うな。一族皆殺しになるぞ」と叱りました。のちに項羽は、まさに始皇帝の秦を滅ぼす側の中心となっていきます。

※会稽は「かいけい」と読みます

3. 錦を着て夜歩くようなもの

錦を着て夜歩くようなもののイラスト

秦の都・咸陽を落とした項羽は、関中を都にするよう勧められても、故郷の楚へ帰りたがりました。日本の「故郷に錦を飾る」と同じ発想で、出世して帰郷しないのは、きれいな服で夜道を歩くようなものだと語ったのです。

これを聞いた人が「楚の人は冠をかぶった猿だ」と陰口を言うと、項羽はその人を煮殺したと史記にあります。

※咸陽は「かんよう」、関中は「かんちゅう」と読みます。関中は山や関所に守られた、攻められにくい土地でした
※史記には、陰口を言った人の名前は書かれていません

戦場で生まれた名場面と逸話

項羽は戦場で多くの名場面を残し、その一部は今も故事成語として使われています。劉邦との駆け引きも含めて見ていきましょう。

4. 船を沈めて退路を断った戦い

船を沈めて退路を断った戦いのイラスト

紀元前207年の鉅鹿の戦いで、項羽は川を渡ると船をすべて沈め、釜や甑も壊しました。宿舎も焼いて3日分の食料だけを持たせ、兵に生きて帰る気持ちを捨てさせたのです。

楚の兵は1人で10人に当たる戦いぶりだったと史記は記しています。これは「破釜沈舟」の由来で、退路を断つ点は韓信の「背水の陣」と似ていますが別の故事です。

※鉅鹿は「きょろく」、破釜沈舟は「はふちんしゅう」と読みます
※甑(こしき)は米などを蒸す道具です
※韓信(かんしん)は劉邦に仕えた漢の将軍です

5. 鴻門の会で見逃した好機

鴻門の会で見逃した好機のイラスト

鴻門の会で、項羽の参謀・范増は、剣の舞に見せかけて劉邦を斬らせようとしました。そこへ劉邦の部下・樊噲が、盾を手に劉邦を助けるために乱入します。

その樊噲の行動に感心した項羽が生の豚の肩肉を与えると、樊噲は盾をまな板代わりにして肉を食べました。さらに劉邦に罪はないと責められ、項羽は言い返せず、その隙に劉邦は席を外し、逃げ帰りました。

※鴻門の会(こうもんのかい)は、劉邦が項羽の陣を訪ねたときに開かれた酒宴です
※樊噲は「はんかい」、范増は「はんぞう」と読みます

6. 3万で56万を破った彭城

3万で56万を破った彭城のイラスト

紀元前205年、項羽が斉で戦っている間に、劉邦は諸侯の兵と合わせて56万人で楚の都・彭城を占領しました。項羽は精鋭3万だけを率いて引き返し、大勝します。

史記によると、追い込まれた10万あまりの漢兵が睢水に落ち、川の流れが止まったほどだったと書かれています。劉邦の父と妻も、このとき楚軍に捕らえられています。

※斉は「せい」、彭城は「ほうじょう」、睢水は「すいすい」と読みます
※56万人や10万あまりといった数字は史記の記述で、誇張が含まれている可能性があります

7. 父を人質にされた劉邦の返事

父を人質にされた劉邦の返事のイラスト

にらみ合いの中、項羽は高い台に劉邦の父をのせ、「降伏しなければ煮るぞ」と脅しました。劉邦は「わしとおまえは兄弟の約束をした。わしの父はおまえの父だ。煮るならわしにも羹を1杯分けてくれ」と返します。

怒った項羽は殺そうとしましたが、叔父の項伯に「殺しても恨みが増すだけ」といさめられ、父は助かっています。

※羹(あつもの)は熱いスープのことです
※「高い台」は、史記では高いまな板を意味する「高俎(こうそ)」と書かれています
※項伯は「こうはく」と読みます

最期の日々と後世に残る伝説

無敵に近かった項羽も、やがて劉邦の軍に追いつめられていきます。最期の場面と、そのあとに生まれた伝説を紹介します。

8. 四面楚歌が生まれた夜

四面楚歌が生まれた夜のイラスト

紀元前202年、垓下で漢軍に包囲された夜、四方から故郷・楚の歌が聞こえてきました。項羽は「漢はもう楚を手に入れたのか。なんと楚の人が多いことか」と驚いたのです。

周りが敵ばかりで孤立する意味の「四面楚歌」は、この場面が由来です。漢軍がわざと歌わせた作戦という話は、史記にはない後世の言い伝えですが、楚の兵が本当に漢に降っていたとみる解釈もあります。

※垓下は「がいか」と読みます
※「漢に降る(くだる)」は、漢に降伏するという意味です

9. 烏江で逃げる道を断った理由

烏江で逃げる道を断った理由のイラスト

最後の戦いの前、項羽は残った28騎に「天が私を滅ぼすのであって、戦い方が悪かったのではない」と語りました。司馬遷はこの言葉を、史記の評で誤りだと批判しています。

烏江の亭長は船を用意し、江東へ逃げて再起するよう勧めました。しかし項羽は「江東の若者8000人と西へ向かい、1人も帰らなかった。どの顔で父兄に会えようか」と断り、愛馬の騅を亭長に与えたのです。

※司馬遷(しばせん)は史記を書いた歴史家です
※烏江は「うこう」と読みます。亭長(ていちょう)は宿場の長、騅(すい)は項羽の愛馬の名前です
※江東(こうとう)は長江の下流の東側で、項羽の地元にあたる土地です

10. 遺体をめぐる漢兵の奪い合い

遺体をめぐる漢兵の奪い合いのイラスト

項羽は自分の首に千金と1万戸の領地の懸賞がかかっていると知っていました。敵の中に旧知の呂馬童を見つけると「おまえに手柄をやろう」と言い、自ら命を絶ちます。

漢兵は遺体を奪い合って数十人が死に、王翳や呂馬童ら5人が侯に取り立てられました。劉邦は項羽を魯公の礼で葬り、自ら弔って泣いたと史記は書いています。

※呂馬童は「りょばどう」、王翳は「おうえい」と読みます
※侯(こう)は、領地を与えられた身分の高い家臣のことです
※魯公(ろこう)の礼は、魯の国の君主としての格式のことです

11. 虞美人は本当にいたのか

虞美人は本当にいたのかのイラスト

虞美人は実在したのでしょうか。史記には、虞という美人がいつも項羽にかわいがられて付き従い、項羽の歌に声を合わせたと書かれています。ただ、その後どうなったかは記されていません。

虞美人が自害する場面や、血からヒナゲシが咲いたという話は後世の物語で広まりました。京劇『覇王別姫』でもよく知られた場面です。

※虞美人は「ぐびじん」と読みます。ヒナゲシは「虞美人草(ぐびじんそう)」とも呼ばれます
※『覇王別姫』は「はおうべっき」と読み、項羽と虞美人の別れを描いた劇です

12. 阿房宮は焼かれていなかった?

阿房宮は焼かれていなかったのイラスト

項羽は咸陽で秦の宮殿を焼き、史記は火が3か月消えなかったと書きますが、阿房宮の名前は出てきません。発掘調査では前殿が土台だけの未完成で、焼けた跡もなかったとされます。2025年の再調査も同じ結論です。

焼かれたイメージは唐の杜牧の詩「阿房宮賦」で広まったもので、「あほう」の語源とする話も俗説です。

※阿房宮は「あぼうきゅう」、杜牧は「とぼく」、阿房宮賦は「あぼうきゅうのふ」と読みます
※前殿は宮殿の中心となる建物です
※焼けた跡がないという調査結果には、反対の見方もあります

出典:中国新聞網(2026年)/中国作家網(2023年)

まとめ

若い頃は勉強が続かなかった項羽ですが、「万人を相手にする術」を求めた言葉どおり、鉅鹿や彭城では大軍を打ち破りました。一方で鴻門の会では劉邦を逃がし、守りに強い関中も都にしませんでした。戦では無敵に近くても、先を見すえた判断や人の心をつかむ力では劉邦に及ばなかったのでしょう。

最期の場面からは「四面楚歌」が生まれ、再起を意味する「捲土重来」も項羽を詠んだ唐の詩に由来します。虞美人や阿房宮のように、史実と後世の物語が混ざって伝わる話が多いのも、項羽が長く語り継がれてきた証かもしれません。

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更新日:2026年10月27日(火) 11:34

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