大阪城の雑学12選!266年間も天守がなかった城

大阪城の地下には、もう1つの大坂城が眠っています。豊臣秀吉が築いた城は、大坂夏の陣のあと徳川幕府によって土の下に埋められ、その上に新しい城が造られました。

今私たちが見ている石垣も堀も、実は徳川の時代のものです。さらに今の天守は3代目で、266年ものあいだ城に天守がなかった時期もありました。

そんな大阪城にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

地下に眠る秀吉の城と石垣

まずは、目に見える石垣とその下に隠れた秀吉の城の話です。巨大な石や井戸の伝説にも、意外な事実がありました。

1. 秀吉の城は地下に眠っている

秀吉の城は地下に眠っているのイラスト

大坂夏の陣のあと、徳川幕府は秀吉の城を盛り土で覆い、城を造り直しました。今見える石垣と堀は、すべて徳川の時代のものです。

1959年の調査では地下約7mから豊臣期の石垣が見つかり、翌年見つかった豊臣時代の本丸図で秀吉の城の跡と確かめられました。今は別の場所で出た石垣が「大阪城豊臣石垣館」で公開されています。

※盛り土の厚さは、場所によって約6m〜10m以上です。

出典:大阪城天守閣/大阪市

2. 日本一ともいわれる高石垣

日本一ともいわれる高石垣のイラスト

本丸東側の石垣は、堀の底から30m以上の高さがあり、日本一の高さともいわれています。大阪市も「日本随一の高石垣」と紹介しています。

この石垣は、徳川幕府が全国の大名に工事を割り当てた「天下普請」で築かれました。1620年から約10年かけて、多くの大名が石を運び、積み上げたのです。

※天下普請(てんかぶしん)は、幕府の命令で大名が行った城づくりなどの工事のことです。

出典:大阪市

3. 畳36枚分もある巨石・蛸石

畳36枚分もある巨石・蛸石のイラスト

本丸の正門にあたる桜門の枡形には、城内でいちばん大きな「蛸石」があります。見えている面は約59㎡で、畳36枚分にもなります。重さは推定約108トンです。

この石は岡山藩主の池田忠雄が担当し、岡山の犬島から運ばれた石と考えられています。名前は、表面の模様が蛸に見えることにちなむとされます。

※枡形(ますがた)は、敵が一気に入れないよう四角く囲んだ出入口の空間です。

出典:観光庁/大阪市

4. 金明水の黄金伝説の真相

金明水の黄金伝説の真相のイラスト

小天守台の井戸「金明水」には、秀吉が水を清めるために黄金を沈めたという伝説があり、「黄金水」とも呼ばれました。

しかし1959年の調査では、豊臣期の出土品は見つかりませんでした。石積みの高さも徳川期の盛り土とほぼ一致し、徳川の再築時の井戸と分かったのです。井戸屋形は1626年の建物で、国の重要文化財です。

※井戸屋形(いどやかた)は、井戸の上にかけた屋根付きの建物です。

出典:大阪城天守閣

江戸時代の大坂城の出来事

徳川の城として生まれ変わった大坂城では、江戸時代にもさまざまな出来事が起きました。ここでは火薬庫の爆発や天守の焼失、将軍の死を取り上げます。

5. 雷で吹き飛んだ火薬庫

雷で吹き飛んだ火薬庫のイラスト

1660年、青屋口にあった火薬庫に雷が落ち、大爆発が起きました。爆発した火薬は約80トンで、城の外でも多くの家が壊れたとされています。

この教訓から1685年に建てられたのが、壁も天井も床も石で造った焔硝蔵です。壁の厚さは約2.4mあり、石造りの火薬庫として全国で唯一とされ、国の重要文化財にもなっています。

※焔硝(えんしょう)は火薬のことで、焔硝蔵は火薬をしまう蔵です。

6. 266年も天守がなかった城

266年も天守がなかった城のイラスト

徳川の時代に建てられた天守は、1665年に落雷で焼けてしまいました。その後、天守は再建されないまま長い時が流れます。

1931年に今の天守ができるまで、大坂城は266年ものあいだ天守のない城でした。大阪市も今の天守の誕生を「266年ぶり」と表現しています。

7. 大坂城で亡くなった唯一の将軍

大坂城で亡くなった唯一の将軍のイラスト

14代将軍の徳川家茂は、長州藩を攻める第2次長州征討のため大坂城に入っていました。そして1866年、城の中で病気のため満20歳の若さで亡くなります。

徳川将軍15人のうち、大坂城で亡くなったのは家茂ただ1人です。家康は駿府城、最後の将軍の慶喜は東京で亡くなり、ほかの将軍はみな江戸で最期を迎えました。

※満20歳は、数え年では21歳にあたります。

明治から令和まで続く天守の歩み

明治以降、大阪城は名前の書き方も姿も大きく変わりました。今の天守が建てられた経緯や、戦争の傷あとまでを見ていきます。

8. 「大坂」と「大阪」はどう違う?

「大坂」と「大阪」はどう違うのイラスト

江戸時代には「大坂」と「大阪」の両方の字が使われ、主流は「大坂」でした。明治に入ると「大阪」が広まり、1910年ごろに定着します。

「坂」は「土に反る」と読めて縁起が悪い、という説も江戸時代の本に見られます。そのため今では、歴史上の城を「大坂城」、今の天守や公園を「大阪城」と書き分けることがよくあります。

※縁起の説は、字が変わった由来としていわれる説の一つです。

出典:大阪府公文書館

9. 寄付150万円の意外な使い道

寄付150万円の意外な使い道のイラスト

1931年の天守再建は昭和天皇の即位記念事業で、費用は市民などの寄付でまかなわれました。目標の150万円は約半年で集まったといいます。

ところが天守の建設費は約47万円と、全体の3分の1以下でした。公園整備に約26万円、残りの半分以上は陸軍第四師団の司令部庁舎の新築に使われ、その建物が今の「ミライザ大阪城」です。

※師団(しだん)は、陸軍の大きな部隊の単位です。

出典:大阪城天守閣

10. 歴代最長となった3代目天守

歴代最長となった3代目天守のイラスト

今の天守は、豊臣期・徳川期に続く3代目です。1931年に鉄骨鉄筋コンクリート造で建てられ、鉄筋コンクリートで再建された復興天守の第1号とされます。

初代の天守は約30年、次の天守は39年で焼失しました。今の天守は2026年11月で95年となり、大阪市は「大阪城史上もっとも長命な天守閣」としています。

さらに同じ年、国の文化審議会が重要文化財への指定を答申し、正式に指定される見通しとなりました。

※答申(とうしん)は、国の審議会が意見をまとめて大臣に伝えることです。正式な指定は、官報(国が決まりごとを知らせる公式の広報紙)での告示を経てからになります。

出典:大阪市/文化庁(2026年)

11. なぜ天守にエレベーターがある?

なぜ天守にエレベーターがあるのイラスト

今の天守は、完成当時からエレベーター付きでした。歴史博物館として建てられた天守閣に、昭和初期としては新しい設備が備わっていたのです。

1995〜1997年の平成の大改修では、エレベーターが8階の展望台まで延びました。小天守台の西側にも、高齢者や体の不自由な人向けのエレベーターが新設されています。

※現在、館内のエレベーターは2基あり、8階まで行くものは申し出た人向けです。

出典:大阪城天守閣

12. 終戦前日の空襲が残した傷

終戦前日の空襲が残した傷のイラスト

天守の周りには陸軍の大阪砲兵工廠という兵器工場があり、空襲の標的になりました。1945年の終戦前日には、天守のすぐ近くに1トン爆弾が落ちています。

この空襲で工廠は壊滅しましたが、天守本体は大きな被害を免れました。それでも天守台の石垣には、今もゆがみや欠けが残っています。

※工廠(こうしょう)は、軍の兵器などを造る工場です。

出典:観光庁

まとめ

大阪城の地下には、徳川幕府が埋めた秀吉の城が眠っています。今見える高石垣や蛸石は、徳川の時代に全国の大名が工事を受け持って築いたものです。

また、江戸時代に天守を失ってから266年間、大坂城には天守がありませんでした。1931年に市民などの寄付で建てられた今の天守は3代目で、歴代でもっとも長く立ち続けています。

重要文化財に指定される見通しとなった今の天守は、空襲の傷も含めて城の歴史を伝える存在です。訪れる際は、石垣の足元にも目を向けてみてください。

あわせて読みたい

更新日:2026年10月31日(土) 11:01

コメントを入力

TOP