徳川光圀の雑学12選!若いころは派手な不良だった

ドラマで全国を旅する「水戸黄門」こと徳川光圀。じつは本物の光圀は、全国を漫遊したことがありませんでした。おなじみの印籠の場面も、テレビが生んだものです。

本物の光圀は、水戸を治めた殿さまです。若いころは派手な格好の不良でしたが、のちに歴史書『大日本史』の編さんを始めました。古墳の発掘や、北海道への探検隊の派遣まで手がけています。

そんな徳川光圀にまつわる雑学を12個ご紹介します。

黄門さまのイメージと史実

まずは、ドラマでおなじみの「水戸黄門」と本物の光圀の違いから見ていきましょう。

1. 水戸黄門は本当に旅をしたの?

水戸黄門は本当に旅をしたののイラスト

ドラマのような全国漫遊は、史実ではありません。茨城県も、明治時代に作られた物語で事実ではないとしています。

記録に残る旅は、鎌倉や日光、房総など関東とその周辺がほとんど。1674年(延宝2年)の鎌倉への旅は、『新編鎌倉志』のもとになりました。漫遊話のもとは、全国で史料を探した家臣たちや、蝦夷地への船の派遣とされます。

※『新編鎌倉志』は、鎌倉の地理や歴史をまとめた本です。

出典:茨城県

2. 助さん格さんのモデルは学者

助さん格さんのモデルは学者のイラスト

助さんのモデルは佐々介三郎、格さんのモデルは安積覚兵衛といわれます。2人とも剣の達人ではなく、『大日本史』の編さんに関わった学者でした。

講談では「佐々木助三郎」「渥美格之丞」の名で登場します。本物の佐々介三郎は史料を探して各地を歩き、古墳の発掘も指揮した人物です。

※佐々介三郎は「さっさすけさぶろう」、安積覚兵衛は「あさかかくべえ」と読みます。
※講談は、歴史の話などを調子よく語る芸です。

3. 印籠の決めぜりふはテレビ生まれ

印籠の決めぜりふはテレビ生まれのイラスト

印籠で身分を明かす名場面は、テレビドラマから始まりました。明治の講談にも印籠は出てきますが、ただの薬入れとしてでした。

TBSのドラマ『水戸黄門』は1969年に放送開始。印籠の場面は1970年の第1部第23話が最初です。研究者の金文京さんによると、当初は社内で「あまりにも子供じみている」と不評だったそうです。

4. なぜ「黄門」?父も黄門だった

なぜ「黄門」?父も黄門だったのイラスト

「黄門」とは、朝廷の役職「中納言」を中国風に呼んだ名前です。光圀は1690年(元禄3年)に隠居し、権中納言になりました。「水戸の黄門さま」という呼び名は、ここから来ています。

じつは父の頼房も権中納言でした。つまり父も「水戸黄門」と呼べる立場だったのです。

※中国風の呼び名を「唐名(とうみょう)」といいます。「権」は定員外の、という意味です。
※水戸藩主で中納言になった人は7人とする数え方もあります。

やんちゃな若者が名君になるまで

名君として知られる光圀ですが、若いころは周りを困らせる存在でした。

5. 若き日は派手な「歌舞伎者」

若き日は派手な「歌舞伎者」のイラスト

10代の光圀は派手な格好で町を歩き、人々から「歌舞伎者のようだ」と言われました。派手な身なりで目立つふるまいをする若者、という意味です。

守役(教育係)の小野言員は、文書『小野諫草』で言動をいさめています。侍医の井上玄桐によれば、鰹売りに変装して朝帰りしたこともあったとか。

※小野諫草は「おのいさめぐさ」と読みます。侍医は、主君を診る医者のことです。

6. 跡継ぎを兄の子に返した

跡継ぎを兄の子に返したのイラスト

光圀は実の子でなく、兄の子に家を継がせました。自身は三男で、1633年(寛永10年)に数え6歳で兄の頼重を越えて世子となった人です。

18歳のころ、中国の歴史書『史記』の「伯夷伝」を読んで生き方を改めました。兄弟が王位を譲り合う話で、自分と重ねたと考えられます。

1661年(寛文元年)、2代藩主になると兄の子を養子に迎えます。その子が早くに亡くなると、弟で3代藩主となる綱條を跡継ぎに。実の子の頼常は、兄の治める高松藩へ送られています。

※世子は、跡継ぎのことです。
※頼重は「よりしげ」、綱條は「つなえだ」、頼常は「よりつね」と読みます。

出典:茨城県立歴史館

7. 「圀」は女帝がつくった漢字

「圀」は女帝がつくった漢字のイラスト

「圀」は、中国・唐の女帝、則天武后がつくらせた「則天文字」の一つです。「国」にあたる字で、囲いの中に「八方」と書きます。

光圀は9歳で元服したとき、3代将軍家光から「光」の字をもらって「光国」と名乗りました。「光圀」に改めたのは50代半ば、茨城県の資料では56歳のときです。

※元服は、男の子が大人になったことを示す儀式です。

出典:茨城県

学問と探検にかけた情熱

生き方を改めた光圀は、学問や調べものに大きな力を注ぎました。

8. 完成まで約250年の大日本史

完成まで約250年の大日本史のイラスト

歴史書『大日本史』は、完成までに約250年かかりました。完成は1906年(明治39年)。光圀の死後、200年以上がたっていました。

光圀は1657年(明暦3年)、江戸の屋敷に編さん所を設けて作業を始めます。その後も水戸藩が代々引き継ぎ、目録を合わせて402巻の大作になりました。

※編さんは、資料を集めて整理し、本にまとめることです。

出典:国立公文書館/茨城県

9. 古墳を掘り、きちんと埋め戻す

古墳を掘り、きちんと埋め戻すのイラスト

1692年(元禄5年)、光圀の命令で栃木県大田原市の侍塚古墳が発掘されました。日本で最初期の学術的な発掘調査とされます。

目的は、近くの那須国造碑に記された人物の墓か確かめること。指揮したのは佐々介三郎です。出土品は記録して絵図に残し、元の場所に埋め戻して松を植えています。碑の主の手がかりは見つかりませんでした。

※那須国造碑は「なすのくにのみやつこのひ」と読みます。

出典:栃木県

10. 大船で北海道へ探検隊を派遣

大船で北海道へ探検隊を派遣のイラスト

光圀は船「快風丸」をつくらせ、蝦夷地(北海道)へ3度送り込みました。長さ約50mともいわれる大船です。3度目の1688年(元禄元年)の航海では、石狩地方まで到達しています。

石狩では40日ほどとどまって周辺を調べ、塩引き鮭約1万本や熊の皮などを積んで帰ったとされます。

出典:茨城県立歴史館/石狩市

誕生と晩年にまつわる謎

最後は光圀の誕生と晩年にまつわる、謎の残る出来事ですが、言い伝えや諸説あります。

11. 「産むな」と命じられた誕生

「産むな」と命じられた誕生のイラスト

光圀は1628年(寛永5年)、家臣・三木之次の屋敷で生まれました。父の頼房は側室の久子が身ごもると、産ませないよう命じたという話が残っています。

三木之次夫妻は命令にそむいてひそかに出産させ、光圀を育てたといいます。命じた理由は分かっていません。もとになった『桃源遺事』の記述には、研究者にも慎重な見方があります。

※側室は、正式な妻とは別に迎えた妻のことです。

12. 能の会で起きた家老の手討ち

能の会で起きた家老の手討ちのイラスト

1694年(元禄7年)、隠居後の光圀は、自ら開いた能の会で江戸家老の藤井紋太夫を手討ちにしました。

光圀は能「千手」を舞ったあと、紋太夫を楽屋に呼んで問いただし、刺したと伝わります。その場にいた侍医の井上玄桐が、記録を残したとされ、幕府には「高慢な態度」が理由と届け出ましたが、本当の理由ははっきりしません。

※江戸家老は、江戸の藩邸を任された重臣です。手討ちは、自らの手で斬ることです。

まとめ

徳川光圀は、ドラマのように全国を旅した人ではありませんでした。漫遊の話は明治時代に作られた物語です。助さん格さんのモデルは学者で、印籠の決めぜりふもテレビドラマから始まったものです。

本物の光圀は、派手な若者から生き方を改め、兄の子に家を継がせた人物でした。歴史書『大日本史』の編さんや古墳の発掘、北海道への探検隊の派遣など、学問と調べものに大きな情熱を注いでいます。

ドラマの「黄門さま」とはひと味違う、好奇心あふれる素顔が見えてきます。

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更新日:2026年10月31日(土) 07:26

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