「人魚姫」や「みにくいアヒルの子」で知られるアンデルセンですが、実は彼が生まれた家がどこなのか、いまもはっきりとは分かっていないのです。
14歳で故郷を出た少年は、やがて童話作家として名を残します。ところが私生活では恋がなかなか実らず、旅先では火事におびえ、生涯を借りた部屋で暮らしました。
そんなアンデルセンにまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
童話より童話みたいな少年時代
まずは、作家になる前の話です。生まれた家から最初の本まで、少年時代のアンデルセンは思いがけない出来事の連続でした。
1. 生まれた家が分からない

アンデルセンの生家として知られる家は、本当に生家かどうか分かっていません。両親がそこに住んだという記録が見つかっていないのです。
この家は1905年に市が「生家」として取得しのちに博物館になりましたが、本人も生家とは認めていなかったと伝わります。確かなのは、1807年から一家が暮らしたムンケモレ通りの家です。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
2. 母が語った「氷の乙女」

1816年のアンデルセンが11歳のときに父が亡くなりました。その前の冬、父は窓ガラスの霜の模様を指して「氷の乙女が迎えに来た」と冗談を言っていたそうです。
自伝によると、父の死後、母はコオロギに向かって話しかけました。そのとき口にしたのが「氷の乙女が連れて行った」という言葉です。
3. 14歳の家出と靴なしの踊り

1819年に14歳のアンデルセンは故郷オーデンセを出て、首都コペンハーゲンへ向かいました。持っていたお金は13リグスダラーです。
自伝によると、到着後に訪ねた一人が踊り子のシャル夫人でした。その前で靴を脱ぎ、帽子をタンバリン代わりにして踊ってみせたところ、頭がおかしいと思われて追い出されてしまいます。
※リグスダラーは当時のデンマークの通貨です。物価で換算すると、13リグスダラーはいまの数万円ほどという試算があります
4. 筆名に文豪2人の名前

1822年、アンデルセンは『青春の試み』という本を出しました。名義は「ヴィリアム・クリスチャン・ヴァルター」です。
ヴィリアムはシェイクスピア、ヴァルターはスコットから取り、真ん中に自分の名前を挟んだ筆名でした。本は売れず、残りは裁断されています。作家として本当にデビューしたのは1829年のことです。
※シェイクスピアはイギリスの劇作家、スコットはスコットランドの作家です
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
恋も友情も片思いばかり
ここからは人づきあいの話です。好きになった相手にも、会いに行った作家にも、思いが同じ重さで返ってきたとは限りません。
5. 胸元に残された初恋の手紙

1830年の夏、アンデルセンは学友の妹リボー・ヴォイトに恋をしました。けれども彼女にはすでに婚約者がいて、思いは実りません。
亡くなったあと、胸にかけていた革の小袋から彼女の手紙が見つかります。手紙は友人エドヴァル・コリンの息子ヨナスが、本人の指示で読まずに燃やしました。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
6. 生涯一度も結婚しなかった

アンデルセンは生涯、結婚しませんでした。若いころは「年に1500リグスダラー稼げるまで結婚できない」と友人に冗談を言い、のちにはその収入を得ています。
1843年には歌手のジェニー・リンドに夢中になりましたが、1845年の送別会でリンドのほうから「私の兄になって」と乾杯されてしまいました。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
7. グリムに名前を知られず

1844年、アンデルセンはベルリンでヤーコプ・グリムを訪ねました。童話集で知られるグリム兄弟の兄です。ところがヤーコプは、アンデルセンの名前を聞いたこともありませんでした。
ただ、関係はそこで終わりません。翌年の冬に再会したときには、兄弟と何度も顔を合わせています。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
8. ディケンズ家に5週間居座る

1857年、アンデルセンはイギリスの作家ディケンズの家に泊まりました。予定は2週間ほどでしたが、結局5週間も居続けます。
帰ったあと、ディケンズは客室の鏡に「家族には永遠に感じられた」という意味のカードを残しました。その後ディケンズから届いた手紙は、そっけない1通だけだったといわれます。
出典:チャールズ・ディケンズ博物館/H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
心配性すぎる暮らしと最期
最後は、暮らしぶりと晩年の話です。旅好きで知られる一方、日々の生活には心配性な一面がよく表れていました。
9. 旅好きなのに脱出ロープ持参

アンデルセンは大の旅好きで、外国への旅は約30回、国外で過ごした期間は合わせて9年あまりです。1840年には初めて汽車にも乗りました。
一方で火事をひどく恐れ、荷物には逃げ出すためのロープを入れて持ち歩いていました。このロープは、いまもオーデンセの博物館に展示されています。
※回数は数え方によって変わるため「約30回」としています
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
10. 61歳で初めてそろえた家具

アンデルセンは生涯、家を持たずに間借りで暮らしました。初めて家具をそろえたのは1866年の61歳で、100リグスダラーのベッドを買い、「これが死の床になる」と言ったそうです。
1860年代は夕食に通う家も曜日で決まっていました。月曜はエドヴァル・コリン夫妻、火曜はドレウセン夫妻、水曜はエルステッド未亡人です。
※「間借り」は、人の家の部屋を借りて住むことです
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
11. 銅像に子どもはいらない

アンデルセンの銅像を建てるために、1874年の暮れに募金が始まりました。翌年、彫刻家サービューの案を見た本人は、足にもたれる少年の姿に不満を示します。
その言い分は「私の童話は子どもと同じくらい大人のためのもの」でした。銅像は1880年にコペンハーゲンのローゼンボー宮殿の庭で除幕されました。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
12. 死因は肝臓がんだった

アンデルセンの死因は肝臓がんで、1872年の転倒以来体調を崩し、1875年にメルキオール家の別荘ロリヘズで70歳で亡くなりました。
生き埋めを恐れ、死んだように見えても生きているという趣旨のメモを枕元に置いていたとされます。葬儀は聖母教会で行われ、国王と皇太子も参列しました。
出典:H.C. Andersen Centre(南デンマーク大学)
まとめ
アンデルセンは、童話に負けないほど起伏のある人生を送った人でした。生まれた家ははっきりせず、14歳で家を出て首都へ向かい、文豪の名を借りた最初の本は売れずに終わります。
恋はリボー・ヴォイトにもジェニー・リンドにも届かず、生涯独身のまま。ディケンズ家では長居をしすぎて、家族に「永遠」と感じさせてしまいました。
晩年まで自分の家を持たず、火事に備えてロープを持ち歩くほどの心配性でもありました。銅像の案に子どもの姿はいらないと注文をつけたのも、童話は大人のためのものでもあるという思いからでした。
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更新日:2026年10月4日(日) 09:15

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